幸い(さきはひ) 第十一章 ⑱
第十一章 第十八話
十年以上言われなかった名前だった。
次に呼ばれるときは違和感があるだろうと思っていた。
けれど、その人が、桐秋が、低く柔らかい声で紡いだ春の女王の名を関する名前は、薄絹《うすぎぬ》をまとったようにしっとりと、自身の体にそってなじんでゆく。
「どうして」
驚いた顔で美桜は尋ねる。
「すべてを聞いた」
桐秋は端的に、表情を変えずに述べる。
「でしたら、余計になぜここにいらしたのです」
美桜は問う。
「約束を果たしに来た。
あの花畑での約束を」
その言葉に美桜は目を見開く。
「やっと、君の桜病に対する抗体をもつ抗毒素血清ができた。
君が私を救うために提供してくれていた血液のおかげで」
そう言った桐秋の口調は少し批難めいている。
「私たちはおかしかった。二人とも互いを想い合うあまり、相手の命を思いやるあまり、自分の命を軽んじすぎた。
互いに互いがいないと生きていけないのに、相手さえ生きていればいいと勝手に思い込み、それには気づこうとしなかった。
死ぬ側ではなく、生かされる側になってそれがようやく分かった。
私は君がいないと生きていけない。
君があの時、理不尽に感じた怒りはこれだろう」
そうだ。
そうだった。
あの折、桐秋が死んでゆくことが幸せだといった時、美桜は怒りを感じた。
―― 溶岩のように内からふつふつと沸き立つ憤《いきどお》りを。
それを目の前の愛する人も感じたのだ。
互いに愛していると言いながら、自分の相手に対する愛は信じても、相手からの愛を信じ切れていなかった。
自分が死んでも相手さえ生きていたら、きっと相手は幸せになれる。
そんな身勝手な思いを互いに勝手に抱いていたのだ。
死にゆく自分の幸せは考えても、生きていく相手の幸せを考えていなかった。
変なところで自分たちは似ている。
「一緒に生きていこう。
一緒に幸せになるんだ」
その言の葉をきっかけに美桜の瞳から美しい珠《たま》がこぼれ落ちる。
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