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幸い(さきはひ) 第六章 ③
第六章 第三話
だがしかし、誰の目にも明らかな清廉な関係性を考えの落としどころにするたびに、桐秋の心はすさまじい感情の反発を起こす。
――千鶴は何が好きで、どんな人生を歩んできたのか知りたい。
何気なく聞きだそうともするが、千鶴はその気配を感じとると、さっと薄い膜を貼る。
桐秋を強く拒絶する強固なものではなく、傷つけずに優しく跳ね返す軟らかいゴムのようなもの。
でもそれは固い壁よりもずっと壊しがたいのだ。
――何か事情があるのか、親しくなれたと思っていたのは自分だけなのか。
人のことを自ら知ろうとすることが、こうも難しいことかと桐秋はこの齢《よわい》にして初めて知る。
ただでさえ桐秋自身口下手である。
これまであまり人と多く喋ることの必要性を感じず、話すことの技能を磨いてこなかった。
そもそも、そうするほどに他人に興味を持てなかった。
ところが今は、その人生の有り様を覆すほどに千鶴に感心を寄せている。
こうして思い悩み、昔交わした大切な約束に支障を与えてしまうほどだ。
一方で、知ってどうするのかという気持ちもある。
この先長い千鶴の人生に関わることのできない桐秋が、千鶴のことを知りたいというのは、千鶴を想うが故の桐秋の勝手な欲。
一時の感情で、自分のことを話すことを是《ぜ》としない千鶴を困らせることにならないか。
相反する想いを心の中でしきりにせめぎ合わせながら、桐秋が栞を見つめていると、部屋の外から声が掛かる。
「桐秋様。入ってもよろしいでしょうか」
桐秋が千鶴の入室を求める声に答えると、千鶴は湯飲みを乗せた盆を持って部屋に入ってくる。
「先ほどアイスクリームを召し上がっていらしたので、熱いお茶でもと思いお持ちしたのですが。いかがですか」
千鶴の心遣いに桐秋は頷く。
千鶴は机に湯飲みを置こうとして、桐秋の手元にある栞に気づき、顔をふわっと明るくする。
「栞、使っていただいているのですね。
その花はコスモスという花です。種をいただいたので春に蒔いてみたのですが、とても可愛らしい花が咲きました。
まるで秋に咲く桜の花のようではありませんか」
嬉しそうに告げる千鶴の言葉に、桐秋は秋に咲く桜か、言い得て妙だなと思う。
確かに花弁の形といい、色合いといい、似ているかもしれない。
そういえば、千鶴は出会った時も桜の話をしていたなと思いだす。
これくらいなら知ることが許されるだろうかと桐秋は千鶴に尋ねる。
「君は、桜が好きか」
千鶴は、桐秋からの唐突な質問に驚いたのか、きょとんと目を見開く。
そして桐秋の手元にある花に視線を落とし、優しいまなざしを向けながら
「はい、好きです」
と明確に肯定した。
静かで慈愛に満ちた表情。
桐秋はそんな千鶴の面持ちにしばし見とれた。
彼女と半年生活を共にしているが、こんな顔を見たのは初めてだ。
彼女は常に明るい表情を見せていることが多い。
が、ここまで何かを、心の底から愛おしそうに、しっとりと見つめているということはなかった。
前に少し覗かせた素の表情に似ているだろうか。
似ているというより、これがあの時見せた表情よりも、彼女のずっと奥にある本当の素の顔なのだと思う。
そんな何かを愛でる千鶴の心ゆかしい姿に、桐秋の中のパンパンにはった薄い心の膜が、針で突いたように一瞬でプツンと弾け、中身がころんとまろびでる音がした。