幸い(さきはひ) 第十章 ②
第十章 第二話
南山はピクリと肩を震わせる。
「いえ、覚えていらっしゃらないはずはありませんね。
教授はあの男を目にかけていましたし、北川とその妻になる女性の仲を取り持ったのも教授でした。
教授のもとで助手として働いていた北川と、帝国大学で教鞭をとっていた英国人客員教授の娘。
普通なら接点のない二人。
しかし、たまたま父に会いに大学を訪れていた彼女に一目惚れをしたという北川の話を聞き、あなたは二人が会う機会を作った。
やがて二人は手紙のやりとりからをはじめ、真剣交際するにいたった。
そんな若い二人を思い、両家を説得したのもあなたでした。
そして結婚、ほどなくして娘も生まれた。それがあの子です」
何ら間違いなく告げられる事実を南山は黙って聞いていた。
が、終わりの言葉に異論を唱える。
「そんなはずはない。
生まれた子の名前は“千鶴”ではなかったはずだ」
南山の反論にも、“問われた男”西野は動じず淡々と告げる。
「はい。あの子の本当の名前は千鶴ではありません。
千鶴という名前は、あの子を引き取った時に私が名乗らせたのです。
生まれてまもなく亡くなった実の娘の名前を」
西野から告げられる衝撃の告白の嵐に、南山の頭は混乱をきたす。
驚きと様々な疑問が浮かんでは消えていく。
それが分かっていても、西野は話を止めることをしない。
西野自身もひと息に話さないと、この先話すことを前に心が持たないのだ。
それでも、眼前の男には、今から話す真実の引き金となった罪を己と共に犯した目の前の男には、一切を打ち明けなければならない。
「今から十年以上前、私が帝国大学の南山研究室に在籍していた頃、研究室では破傷風に対する血清療法の研究を行っていました。
それはドイツで開発された最先端の医療技術。
公私多くの金がつぎ込まれ、一部のものの利益のためだけに行われていました。
私と教授もその利を得る側の人間でした」