幸い(さきはひ) 第六章 ⑤
第六章 第五話
「冗談でも、この世からいなくなるなんておっしゃらないでください。
桐秋様がいなくなっていいのは、おじいさまになってから、人生の盛りを謳歌してから、たくさんの幸せを全うしてからです。
桐秋様には、まだまだそれが足りません」
頬に幾筋の川を作り、千鶴は訴える。
「ならば、余計に君を想うことを許してくれないだろうか。
君のことを想えたら、私はまだ、生きようと思えるから」
ずるい言い方だ、と桐秋は思う。
こんなことを言えば千鶴が拒めないことを知っている。
自分が死ぬ、と言うことにさえ敏感に反応する千鶴が、拒絶ことができないことが分かっている。
そんな桐秋に返ってきたのは、
「私などで、いいのですか」
想像を超えた答え。
いや、そうあればいいとは思っていた。が、そうであってはいけないとも思った答え。
「私は、人を愛するということが、よく、分かりません。
そのような私が、桐秋様に想っていただいてもよろしいのですか」
「ああ」
「私は、はじめ、桐秋様のお心を察せず、傷つけました。
この先もそうして、桐秋様のことを傷つけることがあるやもしれません。
それでも、よろしいのですか」
「ああ」
「私自身、貴方様への想いを持て余し、桐秋様を困らせることがあるやもしれません。
それでも、いいのですか」
「ああ」
桐秋が、望む以上の言葉。
愛することが分からないと言いながらも、千鶴の紡ぐ言葉は、段々と桐秋を想うものに染められていく。
止めどない涙の流れを作りながら、千鶴は桐秋にいくつもの許しを求める。
——千鶴の、言葉を紡ぐ間隔がぽつり、ぽつり、とあき、途切れたころ、
桐秋はゆっくりと千鶴の顔を下から覗きこみ、穏やかな口調で問いかける。
「もう、君が心配することはないか」
首を傾けて告げられる桐秋の言葉に、千鶴は少し迷うように逡巡する。
しかし、すぐに首を縦にふって、桐秋を見つめた。
迷子になった子どものような目ですがる乙女に、桐秋は柔らかに問う。
「君は、私が嫌いか」
千鶴は、首が取れそうな勢いで、頭を横に振る。
その顔は涙にまみれていて、少し滑稽だ。けれども桐秋は、それがひどく愛おしい。
千鶴は手を胸に押しつけながら桐秋に告げる。