私は『人生◯年目の人のサポーター』
息子が生まれて4年。母になって4年。
未だに『子育てをしている実感』がない。
「私に何かを『育てる』なんて大層なことはできない」と思っているところもあるような気がしていて。
みんなすごいなぁ。子育てしてて。と思ったりしてしまう始末。
なので
『人生4年目の息子を手取り足取りサポートする人生39年目の私』
が今のところいちばん馴染む。このくらいの距離感が私に合っていると思う。
この意識で向き合うことによって得られる最大の利点は、どうにも上手くいかなくて小さな息子に対してイライラが爆発しそうになった時、兎にも角にもまず
「まぁまぁ。この人まだ人生4年めだからな。」
と挟んで思考を一旦止めることができること。
まずほんの少し諦めるような感覚だ。
正直に言うともちろん「人生4年目めんどくさぁ」と思うことも多々あるけれど、いやほとんどかもしれないけれど、
『君と私は別の人間です。』
という意識をここまでしないと私の頭には難しいのかもしれない。
私にとって『子育て』という言葉には、『育てる親・それを受ける子』という形で役割付けするという意識が強く働いてしまう。
私は、役割付けをしてその責任を全うすることに命をかけてしまいがちな人間だ。
『母親』『妻』などという役割付けをされることを重く感じるので、全力で取り組むけれどプレッシャーをかけられたくないのだ。
さらに不安の先取り常習犯の私はそこからすぐに「君は子どもなんだから」「私は親なんだから」と燃やさなくてもいい正義感からの未来への不安に支配されて、大事なものを見失う可能性が高いと思われる。
十中八九そうなる。
幼き日の私が、父母に求めたことと同じなのだ。
『親に付属するこどもなんだから』
この意味が込められた親の反応は、幼い子でも実はすぐにわかる。
どんなに私が何でもしっかり言うことを聞くいい子でも、大人びていても、
「こどもなんだから黙っていなさいあなたには関係ないです」
という雰囲気がハッキリわかるタイプの父母だったから、私はいつもとても傷付いたのを覚えている。
「あ、今無視した」
という空気も、『言われる前に期待を裏切ることがないよう動かなければならない』というセンサーを研ぎ澄ましていた私には、いとも簡単に感じ取れるものだった。
思春期になってもそうだった。
父や母が私に言う言葉の向こうに「親なのでこういうことを言わなければ」というニュアンスを感じた。「お父さんとお母さんは同じ意見ですよ」という同調圧力もあった。昭和ド真ん中の両親だ。その時代からの自分たちのやり方を信じて疑わない物言いも、今思えば日常茶飯事だった。
私はいつも「そういうものを取っ払った個人の意見を聞かせてほしい」と何度思ったか知れない。
『親子』も『夫婦』も、『友人関係』も『上司と部下』も、所詮は全て人間関係の話だ。『私とあなた』の話だと私は思っている。
認め合ってそこからどうするかを一緒に考えて、良好な方向へもっていけるよう努力する。それがお互いにベストだと私は信じている。
だから私は
息子の声は全部拾いたい。全部受け止めたい。
常に確かな正解を出さなければいけないわけではない。
なるべく簡単な言葉に変えて返せばいいだけなんだ。
大切なのは息子に
「君はそう思うんだね」という反応を返すこと。
「気持ちをわかってくれた」と思ってもらうこと。
『返してくれた』ということによって得られる
満足感や自信を積み重ねること。
実体験からの結論だからかなり信憑性は高い。
39年目の人生の先輩として、ピヨピヨの人生4年目に道を示していきたいと思う。ついに自己主張が噴出し始め『あー言えばこー言う』期に入った今、「おうおう人生4年目!今日も大変元気でけっこう!!」ぐらいの強い意気込みでイライラをぼかしながらやっていきたい所存である。