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日本の馬と競馬には、富国強兵策の歴史が詰まっていた
こんにちは、乗馬と寿司が趣味の男です。
先日学問バーで出会った動物考古学者の方に「馬が好きなら馬の博物館が面白いよ」と伺い行ってみたのですが、あまりに面白かったので、帰宅後に調べたことも踏まえて歴史をまとめてみます。
今回は日本初の洋式競馬場である根岸競馬場と戦争を軸にしてみました。
もっと詳しく知りたくなった方は、ぜひ馬の博物館(横浜)まで足を運んでみてください。横浜駅から直通のバスで行けますよ。
参考文献
日本陸軍と馬匹問題(立命館大学)
横浜と馬、競馬の歴史(公益財団法人馬事文化財団)
横浜の競馬と馬の博物館の歩み(公益財団法人馬事文化財団)
日本の在来馬 (公益財団法人馬事文化財団)
富国強兵と、外来種との交配による国産種の大型化
1842年(天保13)
アヘン戦争で清がイギリスに敗れる
それを受けた日本は異国船打払令を緩和。
1853年(嘉永6)
ペリーの浦賀来航を機に、日本は鎖国を終える。
1894年(明治27)
日清戦争が始まり、翌年に日本が勝利する
1904年(明治37)
日英同盟を結び、日露戦争が勃発
日清・日露戦争を経て、日本の国産種の馬は軍馬として適していないことを知る。
そこで日本政府は馬政計画を打ち出し、日本の国産種を外来種と交配させることで大型化する取り組みを始めた。
→日本古来の種は数を減らし、現存しているのは8種類のみ。そのほとんどは地方に分布し、馬政計画への登用から逃れた品種。
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そのほとんどは馬政計画への登用から逃れた品種であり、地方に分布している。
(日本の在来馬 (公益財団法人馬事文化財団)を参考に作成)
国際交流の場としての役割を果たした洋式競馬場
1859年(安政6)
日米修好通商条約により横浜が開港。
→横浜に居留外国人が住むようになる。条約に規定されていた開港場は神奈川だったが、外国人と攘夷派との衝突を恐れた日本政府は、代替地として横浜村一体を整備し、開港場とした。
1860年(万延元)
現在の横浜元町あたりで、居留外国人によって、日本で初めて洋式競馬が開催された。
→その後も仮設競馬場や練兵場で複数会開催されたが、居留外国人からは、専用かつ恒久的な競馬場建設の要望が高まっていった。
1866年(慶応2年)
日本初の常設洋式競馬場として根岸競馬場が開設された。
設計・監督はイギリス駐屯軍将校らが実施した。
当初は居留地の背後にあった沼地(現在の中区扇町から松影町付近)を幕府側が埋め立て、競馬場として外国人に貸し出すことになっていたが、1862年(文久2)の生麦事件(薩摩藩士がイギリス人商人を殺傷し、薩英戦争の引き金になった)を契機に諸外国との緊張が高まっており、攘夷派との衝突を懸念した幕府・外国団双方は、根岸(郊外の丘に位置する)を用地に選んだ。
初めは居留外国人のみが洋式競馬を楽しんでいたが、次第に日本人も参加するようになった。
1880年(明治13)
日本レース倶楽部が結成された。
明治天皇から優勝馬主賞品(金銀銅象嵌銅製花瓶一対)が下賜された。(天皇賞のルーツ)
西郷従道・松方正義・伊藤博文といった明治政府の重鎮らも正会員となり、競走馬を所有し参入した。
根岸競馬場は「鹿鳴館外交」と呼ばれ、明治政府の国際交流の場としての役割を果たした。
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ここで明治政府の重鎮らが外国人たちと国際交流を行った。
賭けにより経済力をつける洋式競馬場
1888年(明治21)
根岸競馬場で馬券の発売が開始された。
外国人居留地内という治外法権が適用されたため、日本の刑法で禁止されている賭けが公然と行われた。
→馬券の売上げは内外の会員や日本レース倶楽部に経済力をもたらし、オーストラリアから洋種馬を輸入するなどの独自の発展を遂げた。
(他の競馬場はこのような財政基盤がなく明治政府の補助金によって成り立っていた。)
1906年(明治39)
他の競馬場でも馬券発売が黙許され、競馬ブームが訪れた。
→各地の競馬組織で不正も行われるようになった。
1907年(明治41)
馬券発売を禁止する新刑法が施行される。
→各競馬会は11の競馬倶楽部に整理され、政府からの補助金で細々と続けることになる。
1923年(大正12)
馬券発売を認める新たな競馬法が成立する。
→日本レース倶楽部をはじめとする全国11の競馬倶楽部は公認競馬を開始した。
1936年(昭和11)
競馬法が改正され、統合組織"日本競馬会"が作られる。根岸競馬場の名称は日本競馬会横浜競馬場に変更される。
→各地の競馬倶楽部は解散。
→日本レース倶楽部は日本競馬会に吸収される。
→入場者数・売上げともに順調に成長していく。
1939年(昭和14)
皐月賞がはじまる。
1948年
日本競馬会が、GHQの独占禁止法に抵触するとの見解により解散する。
→農林省畜産局が直営する国営競馬へ移行されるも、競馬を直接国が運営するという形態に異論が出るようになる。
1954年
農林省畜産局から施行を引き継ぐかたちで日本中央競馬会が設立。
太平洋戦争による、洋式競馬場の軍事利用
1941年(昭和16)
太平洋戦争が勃発し、横浜競馬場(旧根岸競馬場)の付属施設には敵国収容所が設けられる。
1942年(昭和17)
横浜競馬場は軍港が一望できるなどの理由で海軍省に接収される。
海軍省は、当時老舗の印刷会社であった文寿堂に付属施設を買収させ、艦艇用の暗号書などを作らせる。
1943年(昭和18)
横浜競馬場は閉場式を挙行。
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戦後の米軍による競馬場の占領と利用
1945年(昭和20)
終戦後、横浜競馬場(旧根岸競馬場)全域が連合軍に占領される。
一等馬見所は米軍管理の元で印刷工場になる。
→米軍は文寿堂に印刷工場を引続き行わせ、米陸軍向けの地図とパンフレットを印刷させる。
(文寿堂は戦禍の中でもほとんど無傷の状態だった。)その後、文寿堂の印刷用紙が隠匿物質(旧日本軍関係の物資を隠匿するもの)だとの摘発を受けたため、文寿堂は調達業務から外される。→一等馬見所は住宅管理部の事務所となる。
1969年(昭和44)
日米合同委員会にて横浜競馬場の返還が決定される。
大部分は横浜市の公園用地(現在の根岸森林公園)とされ、一部を日本中央競馬会が取得する。
"拍車をかける"や"馬銜(はみ)を外す"といった、馬の関することわざがいくつもあるくらい、馬は人の営みと密接に関係してきました。
そんな馬の歴史を追ってみると、人類の歴史も同時に見えてきて面白いですね。
今後も乗馬を楽しみつつ、別の角度で観察してみようと思います。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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