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太陽は夜も輝くH×H

きっとみんな、誰かの特別になりたいと思ってる。誰かに大切にされたい。そして抜きん出ている才能を世間に正当に評価されたい。みんな承認欲求がある。無い人なんてきっといない。きっと無い人なんて存在できなくてすぐ世界のチリになって消えてしまう。でもきっと、自分の才能を評価されたいんじゃなくて、だれかにその内なる才能を引き出してくれる人を待っているんじゃないの。後者の方が、本当は多いんじゃないの。努力して才能を得られる人はすごい。努力、継続も才能の一種だと感じてしまうのが、無気力惰性からくる羨みだ。みんなやればできる子YDKだけど、行動に移せるのは一握り。その後者は自身で努力するつもりはなくて、努力したくなくて、努力して得られた才能がほしいんじゃなくて、元から備わっているモノを世界に認められたい、大切にされたい。他力本願だけど、そうされたいし、信じている。そう信じさせてほしい。努力して得た才能は、私そのものではないんじゃないの、わたしに色がついてしまったら、ついてしまったら、、。ここから先を考えると、自分をもっと嫌いになってしまう。理にかなってその求めているものを諦めてしまう。きっと、きっとこの先にいくつくものは、私の求めているモノじゃないから、拒絶したい。私に色をつけるんじゃなくて、私が色になりたい。アマゾナイト原石を世界に広めて、磨かないで、太陽を目に焼き付けてはいけない

きっとみんな何かに縋っている。何かに縋らないと、生きていけない。天才は、特別は周りを理解できない。そして逆も然り。理解されない存在になりたい。誰にも理解されなくていい。理解されたらきっと、じぶんを非凡ではなく平凡だと気づいてしまうから。でも理解されないのは孤独できっとたくさん悲しくなる。せかいのどこかで太陽と月が交わるとき、太陽と月はもう明るくならない、明るくなれない。交わらないからこそお互いの存在を手探りで確かめ合える。お互い高みを目指せるんじゃなくて、あまりに一方的に高みを自覚する。太陽は月がいることで自身がそうだと自覚する。でもどちらのほしもいないと、自分が太陽だということも、自分が月だということも気づけない。自分と違う星がいるから自分が非凡だと気づける。観客、傍観者は必要悪だ。憧れること自体に意味があるのかとさえ思う。自分と違うみんなをひだまりに包める太陽がいるから月は、自分がただ夜のひとりぼっち、平凡だと気づいてしまうのかもしれない。だとすれば月は、太陽がいないほうが幸せなのかもしれない。特別になりたいと、そう思わないほうが。そう思えるからこその人生もあるだろう。でも気付けないほうが、どれだけ幸せだろうか。だから月は、冷たい夜にひとりぼっちだ、ひとりぼっちを選んだ。太陽がいないほうがいいのに、太陽と月が交わらない時、私たちが存在し合える。
自分が玉桂だと他人に強制的に気付かされた時、人生から色が消える。自分が、自分だけが人生の主人公の中で、誰かが「あの人は太陽で他の人とは色がちがう」という言葉を言っているのを聞いてしまった時、ステージから引き摺り下ろされて、夜から太陽を見えてしまうだろう。自分がその言葉を話す人でもなく、言われる側でもなく、ただその言葉を聞き流すその他大勢、傍観者。ただの言葉だけがわたしにひとつひとつ溶けだして、侵されて。それに気づいてしまった時、太陽に焦がれている玉桂は、一体どうなってしまうんだろう。
誰かの太陽になるのはきっと容易い。みんなが太陽を見ているから。でも月のままでみんなに太陽だと思ってもらえるにはどうしたらいい。夜になるとみんな臥床について瞑目を保っているのに、みんなの目にうつるにはどうしたらいい。

でも、きっと太陽は夜も輝く。私の存在をかき消しちゃうくらいに。みんなをあたたかく照らして、夢すらみさせる。

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