(個人的な)現代の「遊郭」 の“描写”についての考えまとめ
2025年の大河『べらぼう』とか、鬼滅遊郭編とか、あと『仁』とか、色々と遊郭を舞台にした創作がなされていて、そしてそれらの作品の遊郭の描き方について色々な意見が飛び交うわけで。 その中に、「べらぼう」での遊郭及び遊女の描き方に拍手を送る方を指して
「こう言った人たち(いわゆる“フェミ”ってやつ。…を、冷笑したいだけなのでは、とも思ったりした)は
親に売られて遊郭で働く少女たちの背景には、飢饉で死んでいった子どもたちの死体がある、ということを想像しないんだな。」
という旨のツイートを見かけて、まあ確かにそうだな、とは思った。でも何か引っかかるものがあって、そのもやについて考えようと思う。
それで、この“ちゃうんやないか”の正体を探るために、自分が前に書いた遊郭や遊女に関するツイートを振り返ってみた。そうしましたらですね、やっぱりあのツイート、言いたいことはわかるけど、そもそもこの論争?、それぞれ話の焦点がちょっと違う気がしたわけでござんす。
みんな(広く一般の話ではなく、この手の話題に触れてる人) 遊郭の悲惨さや過酷さについて、ある程度は知ってると思う。親に売られるだとか、飢饉や貧困が背景にあるだとか、そういう話を全く知らないわけじゃない。彼女たちが親孝行として売られ、奴隷のような扱いを受けていた、ということに対して そんなことない、とそこを否定する人は、多分どちらにもいない。
ただ、そこのみ(遊郭)を取り沙汰するのはなんだか逆に男女平等でない、とか、 当時の人権意識を見れば 遊女の人権が著しく低い、 ということはなく 全体的に搾取されてたし命が軽かったので、そうそう性産業に従事する女性たちだけ取り上げるのは逆に歴史的観点から不適切だ、ということが言いたいのだと思う。
遊郭“のみ”が地獄だった、ということはないのだ。
でも、おそらく今回『べらぼう』を観て拍手してた人たちは、そういう歴史的な視点の話をしてるわけじゃないんではと感じた。彼女らが注目してたのは、もっと「今」の話で、つまり「現代で性産業従事者、特に女性がどう扱われているか」って問題に繋がる部分だったのではなかろうか。
要は2025年現在の、“現代”における遊女、遊郭の『描写』の仕方の話です。
ここで思い出すのが、コロナ禍初期に某芸人が言ってた「コロナで困った若い女の子が風俗業界に入ってくるから、ちょっと待てば得」みたいな発言。これ聞いて「ああ、やっぱりこういうこと平気で言うんだよな」と思った覚えがある。みんな大声でお水なんて!とか言わなくなったけど、性産業に従事する女性に対する見方というか捉え方というか、そういうのは軽いままだなと思う。
で、こういう感覚がいまだに根強く残ってる社会で、『べらぼう』みたいな作品が遊郭や遊女を描くのは、とくにnhkで扱うのなら、社会的・政治的責任とメッセージが伴うかと。
まず①現代の性産業従事者の女性に対する今時分の扱いっていうのに疑問がある人がそれに怒っていて、
そこにさらに②遊郭ひいては遊女という過去の性産業の形態が、『今』描写されようとしていて、
それが鬼滅遊郭編 (はそこまであからさまじゃなかったけど、かなり低年齢にも波及した作品なので話が広まりやすかった)などで
③どんちゃどんちゃ、綺麗で煌びやかな世界〜、花魁は下剋上できたんです✨みたいに描かれると
こういう扱いは今を生きる人にも後の世にも悪い、という反応が出てくるし、 逆に美化しないで現代の人権意識ベースで描かれると、やっぱり個人的にはありがてえなと思うわけです。
まして子どもたちが目にする機会も多い作品だと、そこから受け取るイメージが、現代の性産業への認識にどう影響するかっていう問題も出てくる。
前述の皆さん遊郭の惨さは承知、というのも割と大人になってから知るもので 。
幅広い年齢に向けて描かれているもの、あるいは子供の目につく可能性が大きいものに関しては
やはりそこは買春は人権的によろしくない、被人道的で、なんなら人身売買と言って差し支えない、という社会通念を形成するために、子供に対しては丁寧に説明せにゃならんと思うのです。なので史実と異なるというか、多少大袈裟に描かれていても、優先されるべきは現代人の人権(ここでは性産業従事者に対する認識)と過去を生きていた人の弔いということで、そこで子供たちが誤解しないように「描写」する、というのは別にいいのではないでしょうか。だってフィクションだし。歴史を知るのも大切ではあるけどもね。