奇跡の子 ①
妹の義父が亡くなった。
長年、癌を患い、抗癌剤治療も続けていたが、体への負担が大きく、止めようとしていた矢先、もう結婚はしないと思っていた50歳手前の次男がスピード婚。順調に子どもまで授かって、その孫と会うことを励みに、やめる予定だった抗癌剤治療を再開したらしい。
その時既に病は末期で、恐らく完治する可能性は限りなく少なかった。それでも辛い治療を頑張れるほど、息子の結婚と孫の誕生は、彼の生きる力になったのだと思う。
夏に生まれた女の子を、すぐに祖父に会わせることが出来なかったのには、いくつか理由がある。
先ず、実家に断りもなく里帰り出産を決め、大量の荷物とともに六月末に帰省してきた絶縁中だった妹が、丸一ヶ月で東京へ逃げ帰った。逆子が治らないのにゴロゴロしっばなしの彼女を、母親が注意したことで逆ギレしたのが原因。
一ヶ月よく持ったものだ…というのが我々の見解ではあるが、残された荷物を、普段何の役にも立たない父親がほだされてせっせと荷造りし、言われるまま着払いで送り返したのだ。中には彼女の夫が汗だくになりながら四苦八苦して母の車に取り付けた、チャイルドシートも含まれている。海外旅行に持って行きそうな大型トランクに満杯のインスタント食品やお菓子の類は、これから生まれてくる子どもの衣類や生活必需品より多かった。
東京→大阪間を一人で運転し、山のような荷物を運びこんだ彼女の夫は、仕事から帰って、帰省中の妻が部屋にいるのを見て仰天したという。
「帰ってきても家に入れへん」
前科∞犯の妹のことを、交際期間僅か二ヶ月で結婚したええ年の夫が、誰よりも理解しているのは喜ぶべきだ。事前に念を押されていたはずが、産婦人科の転院手続きまで滞りなく済ませて、自宅で寛いでいる妻を、「入れへん」どころか、既に入ってしまっているので、追い返すことも出来なかったらしい。私は「奴も大したことないな…」と年上の義弟を見下げた。
着払いで送り返された無駄金が、一体いくらだったのかと脅威する。いずれも大きなものばかり。諭吉が何枚飛んだのだろう。
我々の祖母の誕生日が誕生予定日だった彼女は、我々が溺愛し、前年突如旅立ったわんこ次男が初めて我が家の子になった同じ日付に、2500グラムという小さな体で生まれた。
お産は…恐ろしく軽かったらしい。
逆子は…東京の産婦人科医が手腕で直したらしい。
あまりにも恵まれすぎた、我がアホ妹の順風満帆な一年あまりに、私はずっと「嘘やろ?」と思っていた。実家を振り回し、怒り狂わせ、不義理をしまくっているくせに、神は奴の肩の上にいる。世の中どうなってんのや!と、ずっと腹立たしかった。
しかしここから苦労が訪れる。泣きっぱなしで看護師泣かせだった赤子に、大病が見つかったのだ。大きくなれなかったのもそのせい。泣き止むことが出来なかったのは、体に不調が、痛みがあったからだ。皮膚には黄疸が出ている。彼女は生後一ヶ月になる前に、大きな手術を受けなければならなかった。
その後、再び手術があり、他の不調で何度も入院する。産前トンボ返り以降、何度目かの絶縁状態だった実家とは関係のない立ち位置に居る父親は、妹と連絡を取り合っていたようだが、母は宣言通り、LINEをブロックし、彼女の勝手を許さなかった。そこまで出来ない私に現状の十分の一ほどの報告を寄こしはしたが、基本姿勢は私も母も同じなので、東京の情報は、月に一回やってくる、三人きょうだいの真ん中が齎すのが基本だった。
「しんどいやろうから助けたってや…。おかんも孫に会いたいやろ?」
二児の父になった彼は、親の気持ちで母に言ったが、当の母も姉の私も、何を言うとんのや?というのが本心であった。
「この病気に詳しい力のある先生が揃ってた!東京帰っといて良かったわ!逆子もそっちでは治らんかったし…」
前向きすぎる妹の無神経が、実母と実姉の火に油を注いだ。
僅かでも連絡を取り合っているのを良しとして、妹は我々に投げつけた不義理を既になかったこととして書いて寄こした。
「病院の付き添いばっかりも疲れるわ」
そりゃ、そうだろうとも。でもそれが、あんたの学ぶべきことが記された道だ。ざけんな、てめぇ…と、決して口には出さない暴言を呟きながら、私は労うことも労わることもしなかった。
病気がどうなったのか、今後彼女はどうなるのか、無言の心配をよそに何の経過報告されない絶縁状態のまま、いよいよ年の瀬を迎える。うちには帰って来られないだろうと予想していたが、妹夫婦には夫の父親に孫を会わせるという使命があった。
「向こうに泊まるんちゃう?ほっとこ…」と話していた矢先、その父親が救急搬送されたと連絡があった。年末に帰る間際、当の赤子が何度目かの入院をし、その祖父も緊急入院。
「お義父さんに会わせてあげられるやろか…」
切ない現実であった。