眼鏡の行方 ②
社会人になって初めて受けた職場の健康診断で、私の視力は0.4になっていた。0.1で掛け始めた眼鏡は、成長と共に姿形を変え、レンズの交換も行われていたが、視力自体が回復しているという意識も、眼科医からの診断も無かった。
それから十数年経つが、私の視力は0.4から0.5を常に彷徨っている。そして私の眼鏡は十個に増えた。
今の眼鏡は、私が小学生の時のように高くない。度入りのレンズ代も含め、一万円以下で買えるような掘り出し物にお気に入りを見つけては、自分へのご褒美宛らに購入していたら増えてしまった。
度数も定期的に調べてもらうが、特に変化は無いので、十個の眼鏡すべてが同じだ。それをその日の服装や気分でコーディネートし、取っ替え引っ替える。私にとって眼鏡は、近眼の必須アイテムではなく、アクセサリーのひとつに変貌した。
とはいえ、増えた眼鏡たちは、どれも肉厚でハードな感じだ。ファッション性を重視するあまり、硬質で重い物が多く、一日掛けていれば疲れたり肩が凝ったりする。そもそも私は、眼鏡を四六時中掛けているわけではない。必要なのは乗り物を運転する時や、テレビ、パソコンといった画面に向き合う時、そして陽が落ちた後、外に出掛ける必要がある時くらいで、他は殆ど裸眼である。一日中掛けるとしたら、しっかり化粧をして出かける時で、眼鏡のパッドでファンデーションが削られて跡が残るから外さないという理由に因る。依って、眼鏡は必需品であっても、常用品ではないのである。
夜、犬の散歩から帰ると、先ず彼の足を濡れ雑巾で拭く。そして風呂場に入れて、改めて石鹸で洗う。
私は彼の足を拭く時、無意識に眼鏡を外す。足に目を近付ける時、眼鏡を掛けていると見え過ぎてしんどい。また、雨の時など、その場で水洗いしなければならない場合、飛沫が眼鏡に飛ぶと、洗うのに妨げになったりする。更にそれが夏場であると、戻った時、汗だくだったりするので、少しでも暑さから脱したい思いから、眼鏡を外す。眼鏡が厚着の片棒を担いでいるわけでは決してないのに、外すことで一枚服を脱いだ気になるのだ。我ながら奇妙な癖である。
外した眼鏡は、やはり無意識に置かれる。床の隅っこだったり、足拭き雑巾を重ねている籠の上だったり、寄せられた自らのスリッパの上だったりする。
犬に踏まれないように…という配慮だけは、頭の何処かでしているらしい。時に、靴箱の取っ手に引っ掛けたり、散歩バッグの縁にぶら下げていたりして、自分でも驚く。
また、階段の隅で見つかることもある。これは、犬を上げた後、納戸や物置に用事がある時に置きやすい。階段の電気を点けても死角になり易い場所に置いてしまい、階段を上がったり下りたりを繰り返しているのに見つからなかったりする。
あとは犬を風呂場に入れてからだ。リビングのテレビボードやピアノの上、食器棚やレンジの上に置いては「メガネ、メガネ…」と探し回る。調理中に湯気で曇って外したり、手洗いやうがいの際に、洗濯籠の上に置いたりして、取り入れられた洗濯物の影に潜めたその身に、気付かなかったりもする。
あまりにしょっちゅう眼鏡を探しているので、こちらが眼鏡を外したことを思い出す前に、目にした母親が在り処を知らせることが少なくない。家の中での私は、犬の次に若いはずなのに、すっかり〝波平さん〟だ。流石に頭の上に乗せたことに気付かず、探し回るという芸当をしたことはないが、一度ならずトイレのペーパーホルダーの上に置き去りにして、我ながら呆然とした。トイレで眼鏡を外さなければならなかった自分の心が、未だに解らないのだが、基本的に付属物が苦手な人間である。家に居る時は、あまりお洒落ではない軽いものを掛けているが、ファッションアイテムを自称していても、私にとって眼鏡とは、使わないで済むならそれなりに気楽なものであるということなのかも知れない。