合わないタイミング

 ずばり、ドライの洗濯物である。普通に洗濯機で洗えないドライものは、一定量溜めてからドライ仕様で洗濯機を回す。出ても一度に一枚か二枚なのだから、その場でドライ洗剤を使って手洗いすれば、すぐに干して片付けられる。わかっているが、それが面倒臭い。干して畳んで片付けるだけでも手間がかかるのに、一枚や二枚のためにいちいち手洗いしてソフト水流で脱水し、他の洗濯物を干す時と時間を別にして干さなければならないのが面倒なのである。
 天候や気候、または、滅多にないが“気分じゃない”など、それらに左右されさえしなければ、一週間分程度の着る服は、大体事前に決めている。また、普段着とは別で外出する際も、此処へ行くにはこれを着て…という具合に、事前にハンガーに吊るし、荷物も、それに合わせたカバンに入れて用意しておく。依って、此処でこれを着て、此処であれを着て、此処でそれを着たらドライの洗濯を回す…と、計画しているのだが、大概『今日これを着たらドライを洗濯する』と決めている日に、母が先に洗濯機を回してしまうのだ。
「まとめて洗うから置いといて!」
 事前に伝えて溜めている籠の中身の許容量が、私と母では若干違うようである。
「なかなか洗わんから…」と先に回してしまう母。今日着た残り1枚を、次、いつ溜まるかわからないドライものが集まるまで放置しておく…それが私にとってはイライラの原因になる。

 映画に出掛けたこの日、暗闇の中で観ながら食べていたチョコパイのチョコを、べったりこぼしてしまった。ニットに垂れたチョコクリーム。スクリーンの灯りで大変なことになっていることに気付いて気が気じゃなかった。表面的にはペパータオルで拭ったものの、辛子色のニットに付いた茶色いシミはそんな簡単には取れない。これを観たらすぐに帰る予定だったので、劇場を出た後、カバンでシミをカバーしながら人に見られないよう、そそくさと車に乗った。
 スクリーンの灯りで見えた以上に、チョコレートは垂れていた。見えなかった他のシミの多さに愕然とする。帰った途端脱ぎ、まとめて洗うために溜めていたニットの中から一枚取り出して着替える。荷物を片付けている間にチョコレートは母の手によって取り除かれていた。
「後で他のと一緒に洗濯機回すから、そのまま置いといて!」
「何言ってんの!これはもう洗ったんやから二回も洗わんで良い!洗剤勿体ないやんか!」
 ニット一枚追加したくらいで、そんなに洗剤量が変わるとは思わないが、黙るしかない。チョコレートのせいで洗濯の機会を増やしたのは私なので、それ以上反論することが出来なかった。
 翌日、急遽買い物巡りをすることになり、予定していなかった別のニットを着ることにした。今日これを着てから溜めていたのと一緒に洗えば良い。昨日、一枚手洗いされて減ったのだから…。そう思って起きてみると、昨日のニットを除いたその他複数枚が、既に洗濯機の渦の中だった。
「まとめて洗うから置いといてって言ったのに!今日これ着て、一緒に洗おうと思ったのに何で洗うんよ!」
「あんた、昨日の着た後にまとめて洗うって言ってたやんか!」
 不毛な言い争いである。しょうもな過ぎて朝から力尽きてしまった。
 母娘の間に家事分担の規定はないが、それぞれ相手にやらせれば良いといった人任せな依存心は殆どない。それは私が、ほぼワンオペで家事も子育ても仕事も担ってきた母の背中を見て育ったせいだ。出来ることは手伝う。出来ることは自分でやる。助けられるところは助ける。いつしかこの形に定まって以来、相手がやるからしなくて良いや…という感覚は無くなった。しかし時折、良かれと思ってやったことのタイミングがずれてしまう。
「やろうと思ってたのに!」ということが、「いつまでもやらないからや!」になり、決して「やってくれてありがとう」にならないのは、“9割やってくれたけど1割やり損ねた”という結果が伴うからである。
 ある程度気遣い合える似た者母娘だと思っているが、誰かと暮らしていくというのは、似ていても色々と起こる。


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