褒め上手な小学生

 大人になるまで、人に褒められる…ということが殆ど無かった。
 親には勿論、先生など目上の人、友達などを含め…。
 子どもの頃に褒められた記憶がまるでないわけではないが、僅かなそれさえ、子どもの私にはピンとくるものでは無かった。そもそも褒められているのか貶されているのか、冗談で言われているのか、よくわからないものばかり。
「癖毛が可愛いね」(ぼさぼさなだけやん、どこがやねん)
「歌うまいね」(音楽だけは成績良かったけど、家では「鶏を絞め殺したみたいな声」って言われるし、歌ったら皆に「うるさいっ」って怒られるで?)
 どこかで褒められても、どこかでは貶される。または自分にとってはコンプレックスでしかないようなものが対象だったりした。因って、成人して社会に出るまでに一つか二つ頂いた誉め言葉は、私にとって残念ながら何の励みにもならなかった。
 事実、あーせぃこーせぃと言う指示や叱責から逃れるために生きていて、人に文句を言われないようにするための努力に走った結果、ある意味多少の成果を上げて、自分嫌いから逃れる手立てにはなったのだが、自己満足とは裏腹に、今度は克服したことさえ叩かれる対象となって、生き辛さを抱えながら生活する羽目に陥っただけなのだ。
 大きな転職を経た後、結局は自分にとって、職種や職場が悪かったのだと遅ればせながら気付くことになる。自分にも追い詰められるようになる原因が勿論あったのだろうが、決して自分のせいばかりではなかったのだということに、環境ががらりと変わったことでようやく知ることが出来たのだった。
 自分の評価を上げるために何かを頑張ったことはない。必要だと思うこと、必要だと気付いたこと、そして性格上、大切にしたいことを貫いた結果、沢山の〝小さなそれら〟を認め、褒めてくれる人が増えた気がするのは、現職に就いて以来の経験だ。職場内で関わる人間が今まで以上に増えたこと、そして、その職場で唯一無二の職に携わっていることが大きく影響しているのも事実。同一職種の集合体では、少なからず足の引っ張り合いがあるのだと、同じ仕事を長く続けていながら辞める直前まで気付かなかったのは、私自身が〝大人〟というものを実状以上に〝大人〟だと思い込んで過ごしてきたせいでもあった。
 大人はそんなことしない。大人なんだから…。
 思い込みってそういうことなのかも知れない。
 大人の多くが、成長する過程で、〝大人らしい大人〟になるための人生経験を積んでいるとは限らない。逆に、個々に起こった大小の試練によって〝大人らしい大人〟から横道逸れて大人になってしまった人が少なからずいる。『大人なのに…』という定義は、あくまで私の中のひん曲がった基準でしかなく、理想とする大人がこの世の全てを取り仕切っているわけではないのが事実なのだ。
〝先生〟と名の付く職業の人間を、好きになった試しは一度も無かった。自分がその呼び名を持つ仕事に就いた時、自分と関わりのあった〝先生〟から受けた様々な印象を覆すような〝先生〟に、なろうとした。紆余曲折はあり、失敗も重ねて、必ずしも理想通りとは言えないまでも、自分が嫌った〝先生〟達とは違う先生になれたと思う。
 司書は児童から好かれる。普段の関わり方の問題、距離感、好きな科目に携わる〝先生〟、担任など直接関わりのある〝先生〟とは違う…。理由は様々あるだろうが、司書になって、子ども達から嬉しい告白を山のように受けた。〝先生〟の中で一番好き、だとか。
 勿論、私という司書を嫌いな児童もいるだろうが、そういう子は直接言ってこないので、こちらにとってダメージは少ない。そう考えると、結構良いとこ取りをさせてもらっている気がする。
 髪型、服装、何でも褒めてくれる。
「可愛い」とか言ってくれる。
 廊下ですれ違うだけで声が掛かる。時に歓声が上がり、必死に手を振ってくれる。何かアイドルになった気分だ。
『私、モテモテやん』とか勘違いを起こす。
 本当は、髪型も服装も年齢に相応しくない。年を重ねている自覚が無いから、本人に恥じらいも無く、何十年も同じ恰好をしているだけで、「可愛い」と言ってもらえる歳ではない、決して…。
 人生で何度か訪れるらしいモテ期が、私にはまだ一度も訪れていない気がするのだが、寄り付く相手に年齢が関係ないということであれば、私の求めるモテ期は、今後一生来ないかも知れない。本当は有り難く受け止めないといけないのに、ちょっと不安になって来た…。

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