媒体を通して社会に問う ②

 話は戻って本である。今、まさに読んでいるその本だ。前述したように、現在半ばを過ぎたところだが、早い段階で感じた違和感が、ずっと拭えない。全体的に淡々と描かれていて、言葉の表現とか言い回しとか、特別な個性にも押されずあくまでありがちなのだが、たったひとつ、気持ち悪くて仕方がない言葉が出て来る。〝お夕飯〟という言葉だ。夕食でもなく、夕飯でもない。〝お夕飯〟なのである。
 過度な〝お〟付き言葉に辟易することはたまにある。〝お紅茶〟とか、〝おコーヒー〟とか、〝お抹茶〟もちょっと気持ち悪い。〝お茶〟は平気だから、差別するなと言われると黙るしかないのだが、その〝お〟、要る?と思うのだ。しかも、全体的に淡々と描かれている文章の中に度々登場する〝お夕飯〟。「夕飯を作っている時に…」「夕食を食べている時に…」では何故いけなかったのか、校正などのチェック段階で、何故誰も指摘しなかったのか、私には不思議で仕方がない。
 表現の自由とかなんとか、権利を盾にされるとこちらも弱い。誰がどんな風に書こうと自由である。気に入らないなら読まなければ良いだけの話だ。唯、先日感じた気持ち悪さを、この〝お夕飯〟を見て思い出してしまった。
 過去に春の園遊会で、天皇皇后両陛下と言葉を交わされていた、招待客の一人であるスポーツ選手が、やたらと「お母さん」という言葉を連呼していたのだ。両陛下に伝える言葉の中で、自分の母親のことを「お母さん」と表現する。そりゃ、ママと言おうがおかんと言おうが個人の勝手ではあるが、気持ち悪いと思ったのは、私の変な先入観のせいかも知れなかった。
 私は小学生の時に、外で自分の家族の話をする場合、父は「父」、母は「母」という代名詞を使うのが正しいと習った。学校でではない。記憶が正しければ母からだ。命令でも指示でもなかったが、「ママ」や「お母さん」ではなく、「母」というのが正しい。そう教わって、「へ~」と素直に納得したのを覚えている。よくよく考えれば、小学校低学年とかで「うちの母が…」とか言っていたら結構可愛げが無い気もするが、中学、高校と、段々成長するにつれ、大人になっても身内や友達以外の外に居る第三者に対し、自分の親のことを家での呼び名で説明するというのは、ちょっと恥ずかしい気もする。その先入観があったせいで、未だ若いとはいえ既に成人を越した、園遊会に招待されるような社会的地位にあるスポーツ選手が、「お母さん」という言葉を連呼していることが気になって仕方がないのであった。

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