芸人が掃ける時

 お笑いが好きだ。元々そんなことは無かったのに、ここ数年、お笑い愛が加速している。ちゃんと観ていなくても、テレビ番組から選択するのはお笑いが優先されるし、観られない時間帯のスペシャル番組なんかは必ず録画する。テレビがつまらない時は点けているのも嫌なので、観るものがない時に消費するためだ。
 劇場に足を運ぶことも増えた。一人で行くことは無いので、同じくお笑いに癒され、お笑いにハマった妹と、気とタイミングが合った時に限るが、劇場で観た芸人が、テレビで活躍するようになると、まるで我が子の成長を見るような気持になって感動する。
 劇場で大笑いさせてくれた芸人は、大体売れて行く。ごく稀に解散したりなんかすると、とてつもなく悲しい。客席から見る芸人たちは本当によく頑張っていて、その頑張りを見てもっと応援したくなる。
 ここ数年は、Ⅿ‐1 グランプリで毎年泣かされる。苦労が報われ、優勝を手にするまでに至る過程を、御贔屓ほどではないにしろ身に染みて感じるからだ。とてもドラマチックで、尚且つ、ちゃんと実力が伝わる芸人の受賞が続いていると、しっかり納得出来るのも理由である。
 昔はそれほど好感が持てる世界ではなかった。関西ローカルより全国ネットが好きだったし、吉本新喜劇にも興味がなかった。関西色の強い番組ではなく、東京っぽい世界観が好きだったから、関西に住んでいながら関西を毛嫌いしていた節もある。私が住んでいる地域では見聞きしないような浪花感満載のこてこてした関西弁には違和を感じたし、決して美しいとは思えなかった。そう…私は美しい世界が好きで、カッコいい世界に触れていたかったのだ。
 年と共に変わって行ったのは、私が思う美しくカッコいい世界が、必ずしもその見た目通りではないとわかったからかも知れない。その一方で、カッコ悪いと思っていた世界が、とても人情味があって飾り立てず、苦労や努力を超えた先に辿り着いた人間らしさに満ち満ちているとわかったせいだ。
 舞台を観ていると、テレビで観る以上の頑張りが伝わる。客席の熱は、アイドルや俳優を追うものとはまた違う。売れっ子であってもウケない時はウケないから、観客はシビアだと思う。依って舞台に立つ側も気を抜けないのだ。
 テレビの世界は遠くても、舞台の世界は近い。私はテレビで観るより舞台を観る方が何倍も笑っている気がするが、毎回観に行く度に、大笑いの狭間で頭に上った愉快な血が、サッと足先まで下がる思いもするのだ。理由は唯一つ。ネタを終えた芸人が舞台袖に掃ける時の顔が、物凄く怖いからである。3秒前まで観客を沸かせていたノリに乗った芸人が、頭を下げて後ろを振り返った途端、真顔になる。去って行く時にちらりと見える横顔は、さっきまでにこやかに観客と向き合っていた、人を愉しませることを生業とした人間とは思えない。お笑い芸人という人種が、一瞬にして普通の人間に戻る。そんな瞬間を目の当たりにして、私の心臓は急に冷えるのである。
 掃ける時に口角が上がっている。そんな芸人がいないわけではない。少数派だが、いるにはいる。袖に姿を消すまで愉しそうな表情をしている。そんな芸人を見かける度、私の心は癒される。それでこそお笑いを生業にするプロ意識の塊だ。芸人の鏡だ!抱くのは好感と尊敬の念だ。
 前を向こうが後ろを向こうが、舞台にいる間、観客は見ている。座席の場所によっては、しっかり見えている。振り返った瞬間の真顔って本当に怖いから、袖に掃けるまでは笑顔でいて欲しい。それが出来る芸人は、いつか天下を取る。そんな風に信じたい。
 大ベテランや、息の長い人気芸人の多くも、大体振り返れば真顔だから、私の望みは希望でしかないのかも知れないが、家に帰った後、必ず思う。あの人も、あの人も、振り返った後、怖かったな…と…。
 最高なのは振り返った後、相方とふざけ合いながら愉しそうに掃けてくれることだ。仲良しアピールも好感度増し増しになるのですよ。
 本当は不仲…とかでも良い。見えないところで喧嘩してくれれば…。袖に入った途端、殴り合いとかになっていたとしても私は気にしない。客席を笑わせ、夢を与えることを徹底さえしてくれれば、何の文句も無いのである。

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