お地蔵さんにお願い ②

 色々あって初詣に行かなかった年というのはあるが、それ以外でも社寺仏閣を訪れる機会は何度もある。敢えて頻繁に巡っていた時期というのはとうの昔になってしまったが、思い立って鳥居を潜ったり、たまたま通りすがって門を潜るなんてこともないことはない。それなりの回数、神や仏に手を合わせ、願いを掛けようが掛けまいが、願いや思いが叶ったり、ご加護を実感したことが今まで、何度あったか…と思い返せば、それほど数は多くない。この年まで大きな怪我や病気に見舞われず、それなりに健康に生きていること自体、ご加護だという見方も出来るが、それが神仏だけの力だと思えるほど、珍しいことだと思えなくなっているのは、親が健康に産んで育ててくれたからだという思いの方が強いからだ。
 神様や仏様が、願いを叶えてくれるとは限らない。見えないその力を感じた時には、お礼参りをして感謝を伝えに伺うが、そうでなければ願いっぱなしで、叶えていただけなかったことにがっかりする。その数の方が圧倒的に多いのだ。
 そもそも参拝は、願いを叶えて欲しくてするものではない。そうであるというのなら、社寺仏閣があれほどの数、現存するだろうか…と、疑問を感じる。誰かの強い願いが積み重なって、神の社も仏の住まいも長らえていると捉える私は、ひねくれているだけなのだろうか。
 お地蔵様に手を合わせる。お地蔵様は子どもを守る仏様だが、私に子どもはいない。地域の子どもたちに対する思いも薄いから、奇特な心を持って、彼らのために願う…という不自然なこともしない。唯、我が子のような犬が居て、ここ数年で3人の姪や甥の伯母にはなったから、彼らの健康と安全は願う。そして最後に、ついつい自分の悩みが解決するよう、力添えを願ってしまうのだ。
 あかんあかん…ずっとそう思っていた。でも、開き直ってから、これからはどんどん、願を掛けて行こうと思った。何故か…。
 願を掛けるのも勝手なら、その願いを聞き届けるのも、神や仏の勝手だからだ。こんな奴の願いなんか聞き届けてなるものか!と、正しい参拝の仕方も知らない私に怒っていたから、叶わない願いばかりだったのかも知れない。強欲な人間の、意のままになるものか!と…。しかし、手を合わせることで、神様仏様にお願いしたから大丈夫!そう心が洗われるなら、願など掛けなければ損だと思ったのである。
 お世話しているから願いを叶えてください。ではない。叶えてくださらなくても、それは神様仏様の勝手。しかし願うのも勝手だから、私は願を掛けることにした。間違った参拝をしている…と、後ろめたく思うくらいなら、堂々と欲を口にした方が余程潔いと考えたのである。
 住宅内の公園におわすお地蔵様は、一般的な南向き地蔵だ。
 調べてみたら、一ヶ月か二ヶ月に一度、通っている場所の近くに、とても有名な北向き地蔵が居られるのだと知った。何十年も通っている場所なのに、全く意識を留めたことがなかった。いつぞやは、居られることは知っていたものの、あまり気にもかけずに通り過ぎていた。そんなに名が知られていたなんて、認識不足にもほどがある。近々、その場所の近くに出掛ける予定があり、これを縁と呼ぶのか、偶然と呼ぶのかは知らないが、しっかり意識と認識を持って、参って来ようと企んでいる。勿論、願を掛けるつもりで…。
 万が一、罰が当たったりしたら、私という人間は、一願本尊にまで嫌われるような人間だったと逆にわかって、見えない力に頼ろうとする癖も抜けるかも知れない。


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