〝比べる〟は愚かか?

 子どもは自分の親を選んで生まれてくるのだという。そうなのであれば、豊かな家庭を選んで生まれてくる子どもが多いことは当然とも思える。
 では経済的に貧しかったり、親自身に課題が多すぎて不幸な末路を辿った子どもも、その親を選んで生まれてきたと言えるのだろうか?
 一方、子どもを望んでいても、恵まれない家庭というものはある。望んでも、努力しても子どもを得られない親というのは、子どもに選んでもらえる価値がないということなのだろうか?
〝子どもは自分の親を選んで生まれてくる〟という話が真実なのであれば、望んでも選ばれない親は不幸であるし、選んで生まれたものの、親が原因で幸せな行く末から程遠い人生を歩まなければならなくなった子どもというのは、選択を誤ったということにならないか?
 それは子どものことだけでなく、人生をどう生きるかという点でも当てはまりはしないだろうか。
 今朝、勤務先の校長から、娘と息子が結婚した…という報告があった。
『娘と息子が結婚?一体どういうこと?』と思ったが、娘さんと息子さんがそれぞれ同時期に将来の伴侶を得たということらしい。
(考えてみりゃわかる。そうであろう。)
 晩婚化が進み、生涯独身率が年々上がっている世情にありながら、何ともおめでたい話。経済的な不安とは大方無縁で、若く健康な家庭である。望めば子どもも喜んでやって来るだろう。
 片や、結婚とも子どもとも縁のない自分自身を鏡で見てみる。お金とも無縁。子どもに選ばれるどころか、伴侶となる相手にも選ばれない。この後の人生、一人で生きていけるだけの将来的確約さえない人である。
 私は人生を幸福に生きていくための努力をしなかったということなのだろうか。また努力以前に、容量不足で現状を生きることに精いっぱいだっただけだろうか。
 天は人類を淘汰しているのではないかと思うことがある。恐らく私もその対象で、私を繋いだ血脈の価値さえ地に落ち、〝その後〟を続ける機会さえ与えられていないように感じることもある。
 いやいや、神のせいなどではなく、やはり幸せを掴むだけの力不足が現状へと繋がっただけ。元々、この世で巧く生きられている実感などなかった。その違和感は子どもの頃からずっとあったのだ。
 この世は誰のためのものなのだろう。
 私は恐らく、これから不幸に見舞われる度に同じことを考えるし、誰かには訪れるのに自分には決して訪れない幸福に気付くときにも、同じように考えるだろう。
 結局何の成長もしておらず、永遠に繰り返すばかりで年だけを重ねていく。
 やがて死んでも、もう一度生まれ変わりたいと思わなくなったのはここ最近のこと。もし死後の世界で、私より先に逝った、愛する犬と出会ったら、ずっと一緒に眠っていたい。出会ったその後があるのであれば…。
 しかし彼が「もう一度生まれ変わって生きたい」と言ったとすれば、私はその背中を押し、守護する存在として見守りたいと思う。
 私自身が生きるのはもう充分。生きることは辛く苦しいことの方が多くて、すっかり疲れてしまった。それでも目一杯愛せる存在に出会えたことこそ、私には充分過ぎる幸せだったのだ。
 天から淘汰される選別を受けたのだとしても、自分の価値に決着は着いたのかも知れないな…と思う。
 私の生きている世界は物凄く狭いのかも知れないが、その狭い場所で、愛がまるでなかったわけではないのだということは、ずっとこの胸の中にある。

 

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