ザリャーと黄金町(ウラジオ日記18)

ザリャーというアートスペースに行った。市内の中心部からはかなり離れている。ソ連時代の工場跡地を利用したアートスポットで、現代美術の作品がいくつか展示されており、アートinレジデンスも行われている。

しばらく工場跡地は廃墟になっていた。そこを近年アートスペースとして再利用しようと作られたものらしい。

ロシアのエロ事情について調べていたら英語の記事にこんなものがあった。

そこにはザリャーの工場跡には、街娼(いわゆるたちんぼ)がいると書いてある。朝の10時から深夜まで彼女たちはうろついていると。でもぼくの見た限りそんな気配はしなかった。

これは予想だがアートを使って、街娼を追い出したのではないだろうか。アートの政治的利用。廃墟をうろつく街娼、治安が悪かったのかもしれない。それでもその記憶もすべて塗り替えて、きれいに整頓してなかったことにしてしまうのは違うのではないか。きれいな街に、生活はない。

黄金町を思い出す。黄金町のかつての青線地帯は今アートスペースとして利用されている。そしてどうやらアートスペースは役目を終了し、再開発されマンションが立つという記事を読んだことがある。探したけれど、その記事が見当たらないし、あれは殆ど高架下で行われているから、正確な情報かは定かではないが。調べると環境浄化推進協議会というのが、黄金町を変えたらしい。環境浄化。いやな言葉である。

取り締まって、追い出したところで、何も解決していない。場所が変わるというだけだ。

むかし黄金町アートバザールに行った。町の生活が同居している感じがよくて、印象は良かった。それから何年かして行った。二三年前にも行った。行くたびに、つまらなくなっていったような気がする。思い起こせば最初も、作品に感動したわけではなく、その空間に隣り合うように子どもが縄跳びをしていたことに感動しただけだったかもしれない。

何より、環境浄化の先に、アートが置かれていることが薄気味悪い。

ホームレスを排除する為につくられた尖ったモニュメントを多用したエセアート。眠ったり、座ったりできないように。あれも「まちづくり」という言葉を看板にして制作されているだろう。

まちづくりという言葉の主体と、まちづくりから取りこぼされた住人。ムラ社会から一歩も前進していない、排他的なあり方。いやそれよりも性質が悪い。排他には前提として内側の共同体があるが、まちづくりという言葉にはそれすらない。歪められた共同体。それがまちづくりなのか。

政府の補助なしにアートはできないのか。それ程にアートは弱いということか。ひとりで立ち上がれないくらいに。「アート」という語彙の曖昧さがそれを更に加速させている。

何で、こんな話をずっとしてしまっているのかと言えば、ザリャーがあまりにつまらなかったからだ。現代アートという名前で、それっぽい作品が点々と散らばっている。それらすべてが何の思想もなく、ただそこにあるだけののっぺりとした存在で、何の印象にも残らない。案内も不案内で、それらの作品がどこにあるのかもわからない。見つけてもこれなのかな?と判然としない。それ程にそれは屹立していない。あまりに無個性に溶け込んでいる。

それは修正液みたいだ。

黄金町を引き合いに出したが、黄金町よりも何もない。ただそこに工場跡がある方が魅力的なのに。

ウラジオストクではよく廃墟を見かける。ロシアは広大な土地があるから、放っておいても気にならないのだろう。誰も住んでいない、誰の目にも止まらない、壁や屋根に穴の空いた、寂れた家屋。あれの方が余程まちを引き立て魅力的に映していると思うのだ。

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カナタナタ
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