光の方へ
「わたしは光をにぎっている」という映画を観た。
映画を見終わってから喫煙所に向かった。新宿武蔵野館。ここの喫煙所はとてもきれいで、椅子まで用意されている。
ぼくが入った後からもう一人入ってきて、隣の椅子に座る。ぼくはポケットからライターを出そうとするが、手には何も触れない。ライターを忘れてしまったらしく、その人に火を借りてタバコを吸った。オイルライターのやわらかい火が心地いい。その人がぼくに話しかける。
「今の映画観ました?」
「はい。」
「綺麗な画でしたね。」
「そうですね。最後のエンディングテーマで持ってかれました。」
一服。エンディングテーマがこんなにも雄弁に語る映画をぼくははじめて観た。エンドロールで泣いたのははじめてだった。
僕とその人が観た映画「わたしは光をにぎっている」は本当にいい映画だった。
静かに静かに物語はつむがれていく。劇的なことは起こっている。感傷的に描くこともできる。でもそれはせずに淡々とそれらは描写され続けていく。閉まる民宿。閉まる銭湯。閉まる商店街の店々。
監督は宮台信二との対談で、変わらない景色というものに思いを馳せている。ぼくは郊外の生まれだから、変わらない景色と言うものがなかった。変わらずにそこにあるものがないから、愛着もない。ショベルカーが建物を壊すシーン。柱が重機に剥ぎ取られる痛々しさ。おばあちゃん家が壊されてもうないことを思い出す。そこは親しんだ場所の中で、唯一変わらなくあった場所で、だから変わらない景色がぼくの中に永遠に失われたような気分になった。それを思い出した。だからそれらのシーンを見るのは辛かった。
しかし映画は希望で終わる。そうして変わっていく景色の中で生きている人がいて、生きている人が日々を一歩ずつ歩んでいるということが、はっきりと描かれる。
変わっていく景色こそが今のぼくにとっては、変わらないものなのかもしれない。常に変化し続ける節操のない街は、どれだけ変わっても何も変わってないように見える。のっぺりとした張替え。その薄っぺらさにぼくはノスタルジーを覚えるかもしれない。何れにせよ、変化する街の中で同じ速さで変化できずにいる人をぼくは愛おしく思う。
そして最後、映画の中で描かれた、苦しさも辛さもやるせなさも無力さもそれでも続く生活も生きているということも風景も些細さも小ささも選択も愛着も大切な言葉も過ぎ去った言葉も、そのすべてにやさしくうなずいて寄り添うような、そんな歌が流れるのだ。
「光の方へ」
ぼくは彼女の歌が大好きだ。言葉がすべて伝わってくる。言葉のひとつひとつが大切に耳元にやってくる。歌詞カードを読まなくたって、彼女はゆっくりとひとつひとつの言葉を指でたどるように、耳に届けてくれる。そんな歌声が壊れそうでちっぽけな僕らの生活に寄り添うのなら、ぼくは泣いてしまうのだ。
隙間からこぼれ落ちないようにするのは苦しいね
だから光の方 光の方へ
できるだけ 光の方へ
光の方 光の方へ
そう言って歌は終わる。ぼくは網目を想像する。網目の上は細くて歩きづらくてバランスを崩せばすぐに落っこちてしまう。光が当たれば、歩いているところが影で、その隙間が光。落ちてしまうのは闇ではなくて、ただそこに向かえばいい光。落ちるのではなく網をくぐって、光の方へ進むだけ。この視点の転換はすごいと思う。
喫煙所での雑談はもう少し続いた。
お仕事は?と聞いたら、明後日付けでリストラされると言う。二日間家に帰っていないと言う。映画観て、友だちと飲んで、映画観て、映画観て、ずっと家に帰らずにいるらしい。「いつでも帰れるのが家ですからね。」と答えた。また飲みに行くと言ってその人は先に出て行った。ぼくは少しずつゆっくりと、けち臭く最後までタバコを吸って喫煙所を後にした。
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