スパイの気分(ウラジオ日記17)

道を歩いていると、「お前は日本人か?」と聞かれる。そうだ。と言うと、レシートの画像を見せられる。クレジットで支払ったようで、そこにはMATSUMOTO TADASHIと印字されている。「マツモトタダシを知っているか?」と聞かれる。誰だ?知らない。
それからスマホの画面をスクロールすると映像が映る。それはどっかのお店の監視カメラのようで、粗い映像にはレジ前の風景が映されていて、日本人と思しき男性が立っている。
「知っているか?」
粗くて誰だかわからないし、ロシアに知り合いなんていない。知らないと言うと、残念そうな顔をする。それから大使館に行けばわかるかな?と相談される。ビザとか取ってるからわかるんじゃない?と言うと、男は駆け足で去っていく。
マツモトタダシは何をしたのだろう?それとも良い知らせだろうか?映像の中では何か事件が起きている風ではなかった。

映画だったら、これは複線。どこかで私はマツモトタダシと知り合うだろう。しばらく行動を共にして、そういえば名前を聞いてなかったと自己紹介しあう。その時初めて知るだろう。「お前がマツモトタダシだったのか!」それからそのロシア人を探す物語がまた始まる。でも手がかりはない。こちらは名前すら知らないのだ。

そうしてだんだんと事件に巻き込まれていって、気づけばロシアを横断して、モスクワの方に来ているかもしれない。あるいは更に南、ジョージアにたどり着くかもしれない。ジョージア(グルジア)はロシア人に美食の国として認知されている。

グルジア料理屋がウラジオストクにも何軒かある。西の美食は極東にまで名をとどろかせている。駅の近くにあるスプラというグルジア料理店に行った。そこで食べたハルチョーという、仔牛をトマトとスパイスで煮込んだ料理が信じられないくらいに美味しかった。何かフルーツのようなものも入っている気がする。基本はタマネギとトマト、それからスパイスだからカレーと似ている。でもそれはまったくカレーではないし、スープカレーでもない。まったく新しい味覚。具材としてお米が入っていて、でもおかゆのようではなく、それは単純に野菜として舌を彩る。

旅行中、一番感動した料理だった。サイゲン大介に再現して欲しい料理ナンバーワンだ。でもサイゲン大介はもういない。自分で再現してみようと思う。今年中に作ってみたい。

日本にグルジア料理の専門店はなさそうだ。ロシア料理屋に行けば、あるところはあるらしい。ハルチョーがあるかはわからない。

まだ複線は回収していないから、どこかで私はマツモトタダシと出会う筈だ。スパイの気分で町を歩く。誰かに追われているんじゃないかと、車のウィンカーや窓越しに後ろを確認する。雑踏の中に紛れ込む。すっと角を曲がって立ち止まり敵を待ち構える。

ボーンシリーズでもロシアに行っていた。雪の中に立つ巨大なマンションを思い出す。横に大きいそのマンションは建物と言うより壁。そこに均一に並んだ窓。その建物の中には事件にかかわる女性がいる。そんなシーン。

なぜだかそのシーンが印象に残っていて、それ以外はあんまり覚えていない。あんなに観たのに。そういう壁みたいな建物を期待していたのだが、町の中心部でそんな建物は見かけない。でも古い建築を利用した町並みは一番近いヨーロッパというあだ名を裏切らない。

古く重厚なヨーロッパ建築の角を、人を探して男が駆け足で過ぎていくのだ。秘密めいて素敵ではないか。

ふと萩原朔太郎の詩を思い出している。

殺人事件
とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣装をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍體のうえで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
しもつけ上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣装をきて、
街の十字巷路(よつつぢ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ。
はやひとり探偵はうれひをかんず。
みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者はいつさんにすべつてゆく。

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カナタナタ
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