8月31日、デュルケーム、健屋花那
フランスの社会学者エミール・デュルケーム(1858-1917)は『自殺論』という刊行物において、自殺を大きく4つに分類している。すなわち、集団の結びつきがあまりにも弱い社会においてみられる①自己本位的自殺、集団の結びつきが絶対的で強固な社会にみられる②集団本位的自殺、規制が緩すぎる社会においてみられる③アノミー的自殺、そして過度に規制が強い社会における④宿命的自殺、である。
①自己本位的自殺では「集団への奉仕」という「生きる意味」「目的」が見いだせずに自ら命を絶つ。②集団本位的自殺では、殉死などが例示されるように、集団に対して自己犠牲を示す。③アノミー的自殺では、社会からのブレーキが失われ、個人の欲求が膨れ上がった末に、欲求を満たすことが出来ないことに希望を失い自殺する。デュルケームが大きく取り上げたのはこの3つの自殺であり、「デュルケームの分類した自殺3種類」といったようにまとめられることもある。
さて④宿命的自殺はというと、注において纏められている程度で、デュルケームはこのタイプの自殺について検討することを無駄であるとすら述べている。
デュルケームは『自殺論』の終章において、以下のように記している。
つまり、デュルケームが注視しているのは、社会の規範が緩まり、欲求の行きどころを失い命を絶つ③アノミー的自殺であり、人々が苦難の末に「もう死ぬしかない」というレベルまで追い詰められて死んでいくのではないというわけだ。
だが、デュルケームの『自殺論』が出版されてから120年以上が経過した今日、社会はデュルケームが分析のメスを入れた時から大きく変わった。大人だけではなく、子どもが自らの命を絶つ凄惨な事件が報じられることは少なくない。本書を訳した宮島 喬 氏は、次のように述べている。
警察庁によれば、2022年度の自殺者数は21,881人(うち39歳までの割合は約26%にのぼる5,826人)で、その前年から874人増加しているという。玉の緒が繋ぎ止められた人も含めれば、さらに数は多くなるだろう。宮島氏が述べたような、社会関係の鎖に縛られた末の「最後の行為」。児童による、いや、児童に限らず、社会における人々が踏み切るそれを「④宿命的自殺」と位置づけるならば、近代社会を分析したデュルケームが軽視していたそれが、現代日本社会ではこの2万人のうちかなりの割合を占めるのではないかと思える(あくまで私見であり、実際にそうか?という検討は他の方にお任せする)。ここまで長らく書いてきたが、何を言いたいかというと、みんな、死にたくなるほど辛いのである。
そんな、死にたくなるほど辛い世の中を明るく照らすのが、各々の「推し」の力である。私にとってそれは健屋花那さんだ。健屋さんは、2021年の8月末に「リプ返」(要は、貰ったリプライに返事をすること)の企画を行なっている。そして、なぜ彼女がこの企画を実施したかが語られたツイート(まだ当時はTwitterだった)も残っている。
一人でも多くのファンの救いになろうとする真摯な思いが伝わってくるツイートである。そして、2023年の8月31日に投稿された「歌ってみた」が、本記事の冒頭にてURLを貼りつけた「君の神様になりたい。」であった。
時折、健屋さんの歌ってみた動画からは、歌い手からのメッセージが籠められているような気がする。歌詞にある「君を救う歌を歌いたい。」とは、まさしく健屋さんから我々に向けられた思いではないか。
歌では、「僕は無力だ」「僕は神様にはなれなかった」という絶唱が続く。だが、多くは語らないが、例えば私は健屋さんの配信を観て病める時も乗り越えることができた。健屋さんが頑張る背中を追い続けて、自分も新たな生活を勝ち取ることが出来た。健屋さんの微笑みで癒えた傷が幾らあったか知れない。
私のことだけではない。健屋さんが活動を休止する時でさえ、人々は前を向いて各々の高みへ進む意志を示すことができた。
健屋さんは間違いなく、私にとって、いや、多くの人にとって救いの神に他ならないのだ。「嘔吐」ネタであるとか、「掃除」ネタであるとかばかりがよく取り上げられるが、健屋さんには人を救う大きな力があることを、より多くの人に知ってもらいたい。