自分の事を話す事

自分のことを、話すこと

ずいぶんごぶさたな記事になってしまいました、
ごきげんよう。
というか、今年はおかげさまで県内各地でお話
する場をいただいて、顔出しする機会が多く、
あまり久しぶりに思っていないのです。
メディアを発信する人間としてはどうかと思っ
てしまいますね。ははは
さて、たくさん人と話す場が増えていくと、
「人前で話すのは苦しくないですか?」
とか
「人前で話せるようになるまでよく耐えてくれ
ました」
とか
「自分の事をそこまで向き合うのは苦しくない
ですか?」
とか言われます。
いえ、苦しいに決まってるじゃないですか、
今でもずっと苦しいし、きっここれからも苦
しいです。
一つ一つ、今の自分を形作っているキオク。
切り捨てることなんてできないし、置いてい
くことも閉じ込めることもできない。
ずっと付き合い続けることになるんだろうと
思ってます。
たぶん、向き合うってそうゆうことなのか
な?っておもう。
自分の傷を受け入れて、自分と対話して、
その中で、自分の言葉を言語化して、外に出
していく。
その言葉を聞いた人の反応をみて、
「ああ、自分これでも良かったのかな?」
って思えたときに、少しだけすくわれる。
わたしは、10代の頃からこの「話す」とい
う事を求められて、ずっとそれをしてきた。
自分の話をする中で、自分の中の自分と話を
してきた。
というか、実は10代の頃のわたしは、いじめられた当時の記憶ってほとんど覚えていなくて。


トラウマになりすぎていて、記憶にしっかり蓋をして埋めていて。

話を求められても、その記憶を掘り出すことがまず必要だったので。

話を求められるたびに、あの頃の自分に会いに 行かないと話をすることができなかった。

なので、多くの人たちが、成長するにしたがって、薄れていくはずだった記憶や人格をどまらせて話し相手にしている。

あの頃の苦しみを無理矢理とどまらせている。
わたしにとってはこれが、1番の「いきずらさ」なのかもしれない。

わたしが、苦しさから逃れるために、やってきたことそのものが、わたしの「いきずらさ」。

でも、みんながこれをやる必要なんてないし、むしろ、やらなくていい。

日常の中ではうまく切り離して、進まないと行けないのだけど。

ときどき、色々ありすぎて、うまく切り離せなくて、苦しい。ってときもありますし。

実生活を送るだけだけど、その中で起きたことで、自分が傷ついてしまって。

それが引き金になって自分の中の自分がフラッシュバックを起こして、連鎖的に感情が崩 壊することはある。

そんなとき、どうしてるのかなって言うと。
誰かと話をするのが一番いいのかなって思 う。

それでも苦しいこと。

やっぱりいつになっても苦しいのは、自分の事を理解してもらえないこと、

と、、、そう思ってしまう心。

何度か触れているけれど、それでも人に全てを理解してもらうことはたぶんできない。

自分の傷は自分のもので、

あなたの傷はあなたのもので、

って。
全てを理解してもらうことはできないけど、
少しずつでも、わかる人に話を聞いてもらいたいと思っている。

自分の思うように、伝えて、伝わったかどうかも自分で考えていい、そんな都合のいい関係がゆるく作られればいいのに。

と、秋の森を歩きながら夢想する。
マミラピンアタバという言葉を添えて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?