暇と退屈の活かし方

暇と退屈の活かし方

「暇でいいね」と人から言われるとき、
なんだかムッとしたり、「暇じゃねえよ」と返したくなる。
「退屈だな」と寝床の上でゴロゴロしているとき、
「何かした方がいいのかな」となんとなく思ったりする。
暇なことがなんだかよくない気がする。
退屈しているとなんだか動かないといけない気がする。いろいろ頭では思うけど、気が付けばスマートフォンやゲームを手に持って無表情のまま画面を操作している。時々Now Loadingの黒い画面に映る自分の顔を見て、何してんだろ…と思う。今こうしている時間は自分にとって何の意味があるんだろうか。
暇は悪いことなのか?退屈は贅沢なんだろうか?
少し考えてみたい。
『暇と退屈の倫理学』(著者:國分功一郎)という400ページ以上ある本がある。
そこでは、暇と退屈にはいくつかのパターンがあるって言ってる。全部で4つあるけど、ここでは2つを見ていく。
暇はないけど、退屈だというとき。その時やることがあるけど、やっていることは退屈そのもの。
つまらない宿題をやっている時間とか、
お説教を受けている時とか。
暇だけど、退屈じゃないとき。自分にはたっぷり時間がある。そして、その時間を自分にとって有意義に活かすことができる状態。ここでは自分に与えられた、または偶然にできてしまった時間をどう過ごすかということがヒントになる。

この「暇だけど、退屈じゃない」というところをもっとよく見てみよう。例えば、ゲームをする時間。
ゲームで忙しい、というとき。みんなにはゲームをする時間がある。つまり、暇な時間があって、そこでゲームをすることでその暇な時間を退屈だと感じなくなる。この暇な時間というのは、おうちの人からすればあまり重要な時間ではないことが多い。

ゲームするぐらいだったら家の手伝いしなさいとか。
おうちの人からすれば家の手伝いの方が大事なんだけど、僕らからするととても面倒くさい。
面倒なことをやるぐらいだったらゲームで忙しくして、退屈を紛らわしたい。

怒られるのはわかっているけど、「今忙しい」と、
退屈を紛らわせる時間から離れるのをなるべく延ばしていたい。
暇をつぶす、退屈を紛らわす、って言葉があるぐらい、
どちらかというと暇や退屈な時間は、あまりよくない、
できればなくしていたいって思う場合が多いみたい。

ここからは僕の体験談。僕が子どもの時、
暇で退屈な時間がとてもたくさんあった。
病気で入院していたり、退院してもすぐには学校に行かれないから家のベッドでジーっと天井を見て過ごしていた。その時は大したゲームはなかった。

体は弱いけど、頭だけはフル回転していた。そこで
「なんで僕はこんなところでこんなことしているんだろう。みんな勉強して遊んでいのに」とか
「人生って何だろう」とか、「死んだらどこに行くのかな」とかそういうことをひたすら頭の中でグルグルグルグル考えていた。時にはすごく苦しくなって、朝起きたとき消えてしまえば良いのに、と本気で考えていた。
だけど朝は来る。
来てしまう。そんな「暇と退屈」な時間がとてもとても大嫌いだった。
そこから⒖年以上が経った。今僕が考えていること、
何かをしようとしたとき、あの時
苦しくて 苦しくて考え続けていたことが、基礎になっていることに気が付いた。
「なんで?」をひたすら追い続けたあの「暇と退屈」の時間は、あの時の僕にとっては「毒」だった。
だけど、今では「考える基礎」に進化していた。ただ、
あの時の自分に言いたいのは、そういうことを話したり、何か言葉にする手段があれば「消えてしまいたい」とまでは思わなかったんじゃないかなって。そう思うんだ。「暇と退屈」な時間を、どう考えるか、どう問い直すか。これってもしかしたら
とてつもなく面白いのかもしれないよ。

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