すすめない。
すすめない。
自分がどうしても前に進んでいないと思う時がある。
そんな時はいつも
人からの評価と自分の感情に押しつぶされる。
置いていかれる。せかされる。忘れられる。
進みたい。進まなきゃいけない。認められたい。
どんなに周りが進んでよと自分に言っても、どんなに自分が進みたいと思ってもすすめない。
なにもできない。
したくてもできない。
進めなくても、進める時に進んだらいい。そう思えたらいいのにね。
全部全部私の話。
すすめない時間、すすめない日、すすめない週、すすめない月、すすめない年。
いつも隣にすすめないは存在してる。
きっと、順風満帆に見える人にだって進めない時間はあるはずなんだ。
自分ばかりが留まってしまって置いていかれる気がしてしまうけど、
みんなどこかで感じたことはあるはず。
自分がなにも出来ず、なんで生きているんだろうと思う時はどこかしら比べている。
少しは元気だった時の自分。元気だった頃の自分。元気な友達。元気な親。元気な先生。元気に見える人が自分を見る時、なにもできずすすめない自分を蔑んでいるように思える。
実際、自分が進めなくなったことがない人、進めない時間が短くて済んでいる人は進めない人の葛藤は一切分からないのだろう。
仕方がないけれど、いつも比べなければ楽なのにと思ってしまう。
人間はどこまで行っても比べる生き物なのだからどうしようも無いのだろうけれど嫌気がさす。
進めない自分が嫌になることで、完璧な停止を求めたりする。
私にとってはそれが死だった。死人に口なし、そういうように死んだ人はもう何も出来ない。
それが羨ましかった。私は怒られるかもしれないし、泣かれるかもしれないけれど、物事が全て止まる死に心底憧れた。自分が進めず苦しむことも、少ししか進めないこともトントン拍子に進んで喜ぶことも全てが生きているから起こることであって死が訪れればそれらは無い。
私にとって進めないけれど進む可能性のある時、進んでいるけれど止まる可能性がある時、そのどちらも心底辛くてたまらなかった。
進めない時はその苦しみを無くす為に静止が欲しくて、進んでいる時はその幸せが崩れないように静止が欲しかった。
きっと、死に憧れる感情は憧れを持った人にしか分からない。私はいつも人には言えないこの感情を持ったことがある人を探しながら生活してる。
この感性を持っている人は話していればわかるから、あぁこの人もそうなんだと思うと一気にその人が大切になる。大切になって同時に生きている事に拍手をする。生きている限り時間は流れる。流れる時間を上手く使う使わない、どちらにしても生きているのは苦しい。苦しくないという人もいるかもしれないけど、どこかしらで人と衝突するし困難は起こる。
それを楽しむのよ、と言われてしまったら私は為す術なく笑ってそうですねその通りですと心底言うしかない。本当にその通りなのだけれど、私にとってそれは地獄の苦行。あなたとは相容れない感性のようですと思うだけ。
死に憧れるとっても罰当たりな私なのだけど、思うところはありつつも生き続けてる。今の私はとっても楽しく生きてるけどやっぱり基盤は苦しい世界に生きてるってところ。親族のお葬式の時にお坊さんが言っていた娑婆世界のお話を思い出す。四苦八苦、4つの苦しみとさらに4つの苦しみで8つの苦しみ。この娑婆世界は苦しいことでできているのですよと仰っていて、これだけは素直に腑に落ちた。自分が苦しむことは何らおかしなことは無い。何百年も前からこの世界はそうだったのだと安心できる。どの時代に生まれ落ちてもそこそこ苦しんで生きるんだなと思える。その後の、死んだら苦しみのない世界極楽浄土に行けますよ、お経を唱えれば迎えが来ます。その言葉には頷けないけれど、娑婆世界の話には納得できたので多くの人から死の恐怖を取り除くためにはとても都合のいい言葉だったのだろうと思う。お葬式は私にとってどうしようもない鬼門になる。罰当たりだから、故人の遺体を前に手を合わせようとも何も思うところがない。お疲れ様でした、羨ましいです。それくらい。本当に本当に泣いてる周りに申し訳ない。肩震わせて泣いて悲しんでる人に、本当に申し訳ない。私にとっても大切な人であったはずなのに、私の中で整頓が着いてしまってるから今更涙も出ない。額を拭いてあげる時だって棺に入れる時だって、人間は本当に有機物なんだなと思ってしまうだけ。まだ、人間としての経験が足りないから悲しめないのかなとも思うけれどどうしても亡くなった人が羨ましくてどうしようもなくなってしまう。こうやって、人生が本当に止まって何も考えることも無くまだ生きてる人達に何かを言うことも無くただそこにあるだけのその人が、進みあぐねてもがいて傷つき続けて泣き続けてる私には羨ましさの塊でしかない。本当に生きているのは苦しくて、その苦しさが消える時は死ぬ時なのだと思う。
人が幸せそうな時に私は心の底からおめでとうと思う。自分が幸せな時私は次は不幸が来る、そう思ってる。昔に聞いた"人生の幸せと不幸は同じ量である"が私の頭に染み込んでる。だから、私は自分の幸せを素直に喜べない。これだけ幸せだと次に来るのはとてもとても不幸せなことだ、どうしよう嫌だなと思っているとそのうちに幸せを感じることが怖くなり幸せを見つけられなくなる。そうなると、自分はどうしようもなく不幸しかない可哀想な人生だと思ってしまう悲劇のヒロインになる。自分が持っている優れているものや恵まれているものにも気が付かない。愚かしいことにも、そうなっている人を私以外にも何人も見つけてる。あと、幸せだとその幸せが無くなった時のことを考えて泣いてしまう。その時は来ないかもしれないのに絶対来ると思っているし最悪の無くし方をすると思い込んでしまう。そうすると自分が幸せになれる選択肢が分かってもそれを選べなくなってしまう。幸せにならない方を選んでしまう。わざと人と拗れる物言いをしたり、行動をしたりしてしまう。そうなったら人との距離ができて孤独になってしまう。孤独になる事は死よりも恐ろしい生き地獄だ。一人になりたい、人が嫌い、人が怖い、一人が好き。そう思っていても、人間はひとりじゃ生きていけない。例えば一人で暮らしていても、コンビニでお菓子を買う時に店員さんにお願いします、ありがとうございましたと言えるだけで少しだけ元気が出る。人と話すために声を出すことは大きい。LINEやTwitter、Instagramでやり取りしていても実際に会って声を使ってコミニュケーションを取る事に勝るツールはないと思う。全く知らない人でも、少し話せるとまた頑張ろうと思える。電車の中で泣きわめく赤ちゃん、少し手を振ってみたりお母さんに大丈夫ですよ、可愛いですねと話すこと。私が勝手にすることだし、とてつもない迷惑なのかもしれないけれど私が勝手に救われる。赤ちゃん可愛かったな、それだけでその後のバイトが少し頑張れる。仲のいい人が必要ってだけじゃない。誰とも関わらずに生きていくことが出来ないと言うだけ。もちろん、駅でイチャモンつけられたりして物凄く不愉快な気分になったりもする。友達と話していておじさんにお前らうるせぇよ黙ってろと怒鳴りつけられたこともある。そんな時、本当にこの人可哀想と思って電車を降りてから友達と帰り道を歩いて爆笑した。その友達と笑いながら頭おかしい人っているんだね、ごめんなさいって思うけど私たちだけじゃないのに、ほんと怖いわと話が盛り上がって仲良くなるエピソードが増えたのもそのイチャモンおじさんのおかげ。もちろん、私はそのおじさんの物言いを許さないし些細な不幸で苦しめとも思ってる。でも、これがもし違う言い方だったのならもっと気をつけようと素直に思えたはず。私たちは一人で生きていない。そのおじさんにとっては私は雑音を発する生き物だったのかもしれないけど、そのおじさんだけの世界じゃないからあそこまで怒鳴る必要はなかったと思う。だからそのおじさんは孤独なのだと思う。孤独であることの怖いところは自分が孤独であることにすら気が付けないところ。気が付けないことによって更に自分が孤独になっていくこと。
私は幸せな時も死にたくなる。その幸せの次が来る前に自分の人生を止めてしまいたい。その後に更なる幸せがあるかもしれないけど、それよりも先に嫌なことが起こりそうで幸せな時に今死にたいと思う。人に言ったことは無いけれど、これは言わなくていいと思う。言わなくても私の大好きな友達は友達で居てくれだろうし、全てを共有できないからといって私を嫌いになることも無いだろう。私は進めなくなった時よく友達の力を借りる。友達に夕飯一緒に食べよぉとお願いして一緒に食べてもらう。そうすると、一口も食べられなかったらパスタがひと皿分位は食べられる。どうしようも出来ない、携帯も触れない指の1本も動かせないトイレに行けない、そんな時は静かに過ごすけどどうしても生活しなきゃ行けない時は人を頼る。人を頼ることはとても難しいけれど、頼ったら殺されるわけじゃない。私が友達にした最大のお願いは一緒に銭湯行こ、だと思う。私はその時期どうしようもなく息をするのが辛くて、進めない時期だった。お風呂に入る元気もなくだましだまし生きていたのだけどそろそろやばくなって玄関に横になりながら友達に今日暇?暇だったら一緒に銭湯行こと、誘ったのだ。数分後に、いいよ!と返事が来たので私は数日ぶりにお風呂に入ることが出来た。その後もすすめない時間が長くて周波で数分おきにちょこちょこ訪れていたからゾンビみたいな生活をしていたけど、今生きてるからそれが何よりもえらい。そう思ってる。
すすめないと、どうしてももどかしくなる。もっとできるじゃん。そう思ってしまう。
でも、できないなら、あーーーーーーーできない。
そう認めてしまったっていいと思う。
できない自分すすめない自分を責めなくたっていいと思う。たまには責めたっていいと思うし、やらなきゃいけない大切なことをやるために自分を頑張らせたっていいと思う。
でも、責め続けなくていいし、できないことを認めたっていい。
できないことを認められたらそれをやるにはどんな時ならできるか考えて自分なりにできることを増やせればいい。
考えられるときに考えたらいい。そう思ってる。
私は、人間生活に戻らなきゃ行けなくなった時(本気のゾンビ生活をしていた時期がある)自分でバレットジャーナルを書いていた。
マンスリーとウィークリーを書いて、ウィークリーのスペースを半分に分けてその日にやることを書き込んでた。でも、書き込んでた内容はめちゃくちゃにハードルの低いもの。
何か食べるとかトイレ行くとか、玄関の外に出るとか、深呼吸するとか、きっと当たり前な事なのだけどその時の私には意識しないと出来ない事だから書き込んで出来たらチェックをつけてた。
こんなの当たり前じゃんとやり始めた時は思っていたけど、全部にチェックが付く日はなかなか無くて驚いた。
当たり前だと思っていてもそれは当たり前じゃなかった。
そのギャップに一人で苦しんでたんだなとも思った。
私はバレットジャーナルに書き込むやることのハードルをどんどん下げて、チェックを増やせるようにした。できる、できたがとっても大切だった。
できなくてもいい。できたらめちゃくちゃすごい。
そうやってすすめない時の自分もまとめてあげられたら最高だよね。
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