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谷川俊太郎 生きているということ
探究部顧問のMr.Sです。
Mr.Mに続き、私も谷川俊太郎さんについて記事にさせていただきます。
【インタビュー】教養と看護
言葉を待つ 谷川俊太郎(聞き手 西村ユミ)
インタビューがとても興味深かったので、何箇所か引用させていただきながら、紹介いたします。
詩に対する考え
散文の場合には意味を伝えなきゃいけないけど、詩は伝えなくてもいいというのが僕の立場でね。もちろん意味はどうしても伝わってしまうわけだけど、でも目指すものとしては道端の草花みたいに、言葉がなくても存在しているものを言葉でつくりたいっていう野心があるんです。
「調べ」の中には非常に音楽に近いものがあって、言語がいい意味で「意味」を失うところもあると思う。だから詩は文芸の中で最も音楽に近く、また最も「無意味」に近いところへ行けると思っているんですけどね。
谷川俊太郎さんの『かっぱ』という詩がありますが、意味を考える前に何か踊り出したくなりますよね。
口ずさみ、節をつけて、抑揚をつけて、明るく、暗く、怒って表現してみたり。言葉の面白さを身体で感じながら、自然と詩の世界に浸ってしまいます。
そういった身体全体で受け取るような面白さは、「言葉がなくても存在しているものを言葉でつくりたい」(インタビューより)ということと、つながっているような気がします。
よくわからないから泣いている
小さいときってよく泣くじゃないですか。自分ではどうして泣いているのかよくわからないんだけど、親は必ず「なんで泣いているの?」って聞くでしょう。それに腹が立つわけ、子どもは(笑)。「よくわかんないから泣いてるんじゃないか!」って言いたいんだけど、子どもだから言えないんです。
泣いている人がいると「どうしたの?」と声をかけます。
これはとても自然なことですし、それは咎められることではないと思うのですが、この言葉には確かに前提が存在します。それは「理由があること」と「それを言葉で表現できること」だと思います。
言葉よりも先に行為として表に出てきて、それを言葉にしようとすると、どの言葉を当ててもしっくりこない。けども、確かに存在するものがある。そういうことって確かにありますよね。
生きているということ
谷川俊太郎さんの、『生きる』という大変有名な詩があります。
「知らないよ」という方は是非読んでみてください。
ぜひ、声に出してみてください。
「生きている」という当たり前に見える状態(ご飯を食べたり、友達と話したり)が、実はかけがえのないものであることに思えてきます。
そして、「生きているということ」という言葉の繰り返しが、やがて自分への問いかけになっていくような気がします。
さらに、生きているという目の前の現実を、遠く離れた場所から眺めるような感覚にもなっていきます。どこかの誰かが言葉にもならないような当たり前の日常を送っていて、どこかの公園のブランコは揺れ、どこかで誰かが空を見上げ、誰かが土の上の蟻に気づき、いつの間にか黄昏時になって「そろそろ帰ろうかな」なんて思っている。そんなことに思いを馳せてしまいます。
捉えきれないような大きなつながりの中に自分がいて、その中で「生きているということ」について考えてしまいます。
これから生きていく中で、何度も読み味わいたいと思います。
谷川俊太郎さん、ありがとうございました。
心からご冥福をお祈りいたします。