偽痛風になったときの話・3

 緑風音です。

 太ももを一周するように湿布を貼って、ようやく普通に歩けるようになりました。

このシリーズはいったんこの3で終わりにします(痛かったらまたすぐ始まるけど……)。

 とはいえ、だいたい書いておきたいことは残せたと思うので、うーん。どうしようかな。

 めちゃめちゃ広い話になるんですが、中学生のときとかって、

「こんな事考えてるの自分だけなんだろうな」

ということに閉じこもってしまうことがあります。それはやがて二次創作やもうひとつのファッションやもうひとつのプライベートにつながっていくんだと思います。

 でもそれは、そのあたりについてお互いにどう考えているのかわからないだけで、確認しようとも思わないだけだったりします。

尊い、この子たち付き合っててほしい、誰々は左側固定、とかいうのもそうです。

人殺しソングばっかり聞いてるとか、親にも内緒でえっちなサイトを見ているとか。

 わたしは、学校の中でそういう仲間を求めようとしませんでした。それは別に個人的なものでかまわないし、誰かと共有できなくてもいいことだ、と思っていました。もっと言えば、誰かと何かを共有することが恐ろしかったように思います。うちは親御様がポイズン系なので、共有したそばからわたしの思うものとは違うものにされてしまうのです……。自分がそれを大事にするには、誰もに共有しないことが必要だと考えていました。

 ところが、大人になると仲間に出会うことができます。同じミュージシャンを聞いてきた人がいます。同じカップリングに思いを馳せていた人がいます。それでもやっぱりよくよく話してみると少しずつ違っているけど、もう大人だから許しあえたり、「触れないでおこうね」となんとなく意思疎通できたりします(できない人もいるけどね!)。

 ここでゴリッと偽痛風の話に戻すのですが、今は一人だと思いこんでるけど、似たような痛みを抱えている人が見つけてくれるかなと思ってnoteをしたためたのもあります。

 先日、久々に出勤して、いろんな人が心配してくれました。

「痛いですか?」「大丈夫ですか?」

 わたしは心配されるのがとても苦手だから、「大丈夫です」と言ってしまいたかったのですが、それはもはや嘘になってしまうので、言えません。痛い。大丈夫じゃない。相手はわたしの話を聞いて、ものすごくわたしの痛みを想像して、わたしより痛そうな顔をして、「無理しないでくださいね」と、言ってくれました。心配されるのが苦手なのは、共有した途端に違うものにされてきたからなのだと、気が付きました。心配させることは申し訳ないことで、相手の気持ちを取らせることだからいけないのだと思い込んできました。

 実際、相手の気持ちは取らせてしまうので、

「心配させてごめんね」

という態度は必要だと思います。でも、心配してくれた相手に何かあったとき、自分も同じように心配したいのであれば、今はいっぱい心配してもらうしかないのだと思いました。

 本人以外には、想像することしかできない。心配することしかできない。それは、偽善でもなんでもない。本人が「わからずや!」と思うことは、きっと癇癪を起こした、ということになる。なったことないんだからわかるわけないし、そもそも生きてるあいだに「わかること」なんて、そうそうない。

だからきっと、「自分のことを想像してくれる相手がいる」ということが、人と一緒に生きているということなのだ、と思いました。せめてわかりやすいと思ってもらえるように、想像してもらいやすいように、最後はとりとめもなくなったけど、残しておきます。

 ありがとうございました。またなんか書きます。

(おわる)

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