同級生のちさとちゃん

 この文章は、2018年3月12日、『東日本大震災チャリティーライブ(会場:あさがやドラム)』にて作者が朗読、発表した原稿です。故郷の宮城で被災した作者が、体験した実話を元に構成いたしました。
 全文無料で読めますが、売上の一部を、東日本大震災の義援金として寄付させていただきます。


  *  *  *


   同級生のちさとちゃん

           緑 風音

 2011年当時、私は仙台の実家に住んでおり、ちょうど二十歳になったばかりでした。二十歳になってみた感想は、

 「飲酒が合法になった。……」

 でした。今日はトリなので、これが終わったらソッコーで飲みます。よかったら付き合ってください。

 今日は、ちさとちゃんの話をしたいと思います。私には、ちさとちゃんという小中の同級生がいました。私は彼女から、2011年の1月、成人式の数日前、わざわざガラケーにメールをもらっていました。

 『風音ちゃん久しぶり! 私は今は閖上にいるけど、成人式は仙台のに出ようと思ってるんだ』

 彼女は小中の頃から交友関係が広かったので、きっと、ほかの同級生たちにも同じようなメールを送っていたでしょう。一方、私は小学校の4〜5年生、中学校の2〜3年生と、不登校を繰り返していた身なので、同級生たちと顔を合わせるのはとても耐えきれないと思い、

 『そうなんだ! 私は成人式には行かないけど、仙台のほうが知ってる人いっぱいいるもんね』

 などと返事を打ったと思います。

 さて、彼女が当時住んでいた閖上地区は、仙台市の南どなり、名取市のもっとも海沿いの地域です。ネット等で調べたところによると、津波が到達したとき、彼女は閖上の自宅にひとりでいたそうです。私は彼女のお母様に6年前、電話で、

 「ちさとはいないんです」

 と聞いたきり、連絡ができていません。お母様は憔悴したご様子でした。おそらく、今も行方不明だと思います。お別れすら言えないということはこんなにも心細く、実の親御さんであればなおさら、心の穴として残り続けるものだと思います。

 ──ところで、これはついおとといの夜、私がお風呂で思い出していたことです。

 中学生の頃、まだ仙台にあったちさとちゃんの家で、理科の勉強を教えていたときでした。ふと、彼女が私に尋ねます。

 「風音ちゃんは将来、何になりたいの?」

 私は当時から、将来は芝居をしたいと思っていました。(当時、歌は眼中になかった(※1)のですが、それはまた別の話として、)しかしそれを人にバカにされるのがイヤで、やたらの人には話しませんでした。私が部長を三年間務め、似た者同士が集まる文芸部の仲間ならともかく、ちさとちゃんは水泳部の、しかもエースです。でも、きっとちさとちゃんになら大丈夫だと思い、将来はお芝居がしたいことをそのまま伝えました。すると、

 「すごい! 風音ちゃんは芸能人になるんだね!」

 と、なんかテンションを上げてくれました。照れくさかったのと、そんなに売れることを考えていなかったこともあり、私は、

 「あ、まあ、芸能人っていうか……」

 と、歯切れの悪い言葉を返しました。

 あのとき、私の絵空事のような夢をそのまま受け入れてくれた友人がいたこと。それはきっと、今の私を支えてくれています。

 6年前、

 「好きなことをやって、生きなさい」

 と、母に送り出された先で、私は今日も元気にもがいています。好きなことに貪欲になれなくなる日もありますが、私は、いろんな人の協力を得て、ステージや、歌と一緒に生きることができています。ちさとちゃんに会いたくなる瞬間はたくさんくるけれど、この歌声が、想いが、こう、……波動的なサムシングになって、届いていたらいいけどなあ。


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(※1)作者は、主に神奈川県と東京都でボーカル活動をしています。


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以上、本文

(以下は余白です。)

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