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75年後の黒澤明と小津安二郎

三四郎書館 編集部

ここ一年間くらい、頭の中、心身の情態は、小津安二郎監督の映画作品と残したテキスト、発言と取っ組み合いをしているような日々でした。

この取っ組み合いは、まさに突発的に、あるいは、実際のところは、じりじりと累積的に起こった嵐に巻き込まれるような感じでした。

その嵐の一つの帰結が新刊『小津安二郎発言クロニクル〈1903~1963〉』(2024年11月25日発売予定)に結実することになりました。

先日も、目黒シネマで小津監督の『晩春』と黒澤監督の『羅生門』のデジタルリマスター版の上映があり、観て来ました。ともに初見ではないですが、映画館で観るのは初めての経験でした。

ともに日本を代表する映画監督であり、代表作でもあったので、貴重な二本立ての上映でした。最初は『羅生門』、次に『晩春』という順番の上映でした。ちなみに、『羅生門』の公開は1950年、『晩春』は1949年。

75年くらい前の同時期の日本映画の傑作を連続して観ることになった訳です。

冷静に考えると、めぐり合わせとしては、なかなか斬新な気もしました。

以下の感想は、当然、自分のバイアスの中での印象ですが、「75年後に観た感想」を感じたままに書いてみます。

まず『羅生門』ですが、黒澤監督独自の単純(シンプル)かつ大胆な構成、豪胆かつ骨太な、太い筆さばきで描いてあるような野性味溢れる印象は相変わらずでした。

撮影担当の宮川一夫氏による森林の光と影のコントラスト、太陽光の反射など、大胆で野性的な映像美は健在でした。

あたかも物語自体は説話のような雄勁さがあり、その劇的な構成・骨格は、現代版の狂言や能のようにも感じられました。

ただ、物語に全的に自分を没入するには多少の抵抗感がありました。映像表現が「表現」として、そのまま自分の感性を直截に刺激するというよりは、表現を支えている「観念」、あるいは、こう言ってよければ「意図」が、その映像の直截性を自分から奪ってしまいました。

「このような観念を伝えたい」という製作者側の「意図」や「作為」が、表現自体の直截性を阻害しているのではないか? そんな思いに捉われました。この映画的な感性を阻害する「意図」や「観念」は、終幕時に羅生門に捨てられた赤ん坊の泣き声で、その円環を閉じたかのように自分には映りました。

やはり、突如として羅生門に響き渡った「赤ん坊の泣き声」は、自分には「表現」というよりも「意図」として感受されました。

さて二本目の『晩春』です。

結論から言うと、『晩春』には新しい発見はありましたが、映像美を阻害する「意図」や「観念」というものは感じませんでした。

原節子、笠智衆、杉村春子を初めとする各登場人物の表情やセリフは眩しいほど、活き活きとしており、新鮮なままの生命として「現在の時間」においても躍動していました。日常の風景を永続的な書割の中に刻印しているかのようでした。

『晩春』の話の核となっているのは、笠と原の父と娘という二人で構成される家族です。亡母は、画面の中には登場することも、また説明されることもなく、いわば、徹底した「不在」として、いわば「無」として、画面の中に「登場」しているに過ぎません。

しかし、一人娘の原の婚約が叔母の杉村の周旋で成就したとき、突如、感極まった杉村は、「お母さんに見せたかった」と激しく嗚咽します。ここに不在としての母の被覆された累積的な表現は、あたかも一気に、爆発的に開放されるかのようでした。

ここに製作者の「意図」というものの介在する余地はありませんでした。

製作、公開から75年近くの時間が経過したとき、二つの傑作を同時に観るという経験は、なかなか得難い経験でした。この情報を教えてくれた友人には、感謝しなければいけないなと思いました。

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