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「理論的な正しさ」は求めない方がいい

アマチュアのジャズトロンボーン&ピアノとして30年くらい活動している自分の実感です。

すべての楽曲、すべてのアドリブソロに対し、理論的に過不足なく完璧に説明してくれる理論は、存在しない、と考えた方がいいです。

ひょっとしたらそういう統一理論は存在するかもしれない。
バークリーでやるAvailable Note Scale理論などはかなりそうした理論に迫っているとは思う。
けれど、体得するためのコストが引き合わない。と個人的には思う。

ボルヘスの小説「学問の厳密さについて」

ボルヘスの短編小説にある、精確な地図を追求するあまりに、1:1の地図を制作しそれにより破綻する帝国の話。
これは、ある種の寓話である。

もしくは、物理学のアナロジー

我々が普段見ているほとんどの物理現象は、いわゆる「ニュートン力学」で説明できる。ほらあの高校とかで学んだ試験にでるやつ。

しかし日常的な現象がすべて「ニュートン力学」で説明できるか、というと、そうではない。
たとえば、光の速度とか、そういうレベルでは相対性理論を持ち出してこないと観測事実と理論が一致しない。
そんなの日常生活には関係ない?例えばGPSでの位置情報の計算は光の速度も影響するため相対性理論を踏まえて補正されているらしいよ。

それに、身近で起こっている現象で、いまだに理論的に説明できないものは結構あるんだとか。摩擦とか流体力学とかはまだまだ未知の部分は多い。

ジャズの理論も、同じことが言える。
多くのメロディーや楽曲の構造、アナリゼの大部分は、ダイアトニックコード、アベイラブル・ノート・スケールなどで事足りる。
けど、アドリブの一字一句・テーマメロディもすべてが理論的にすっきり説明できるわけではなくて、どうしても説明が言い澱む部分がある。

例えば、ブルーススケールって何?
ブルースのトニック 7thのコードってなんなの?
なぜ悲しい気持ちが短三度で楽しい気持ちが長三度なの?

こういう素朴な疑問って、納得いく説明って案外なくて「そうなっているから」という事実を受け入れるしかない。

すべての現象を説明できる=統一理論が仮に存在するとしたら、それは多分とても複雑な理論になる。
その「理論」が仮に正しいとして、その場で即興する時に有効に作用しうるものなのか。

つまり、正しい理論であるかどうかではなく、多少不正確でもいいからその場で適応できるシンプルなアルゴリズムが必要なのだ。

「理論はすべてを説明しうる」と思い込みは、時間をムダにしやすい。
理論は「綺麗に説明できることもある」くらいに手軽に使って考えるべきだと思う。

Why?よりもHow

たぶん我々の大部分は音楽理論家ではなく、演奏家であるはずだ。

僕自身は「なぜこの音を使っていいのか」
「なぜこのコード進行になっているのか」
ということに割とこだわるめんどくさいタイプだ。

ただ、実際に演奏するときはそういう考察はともかく、割とテキトウに演奏する。

プロに訊いても、そういう感じだ。
フロント楽器のプロの方のフレージングを聞いていると、おそらく「正しい音」「正しくない音」のレベルで考えていない。
いいソロかどうかの判断は理論ではなくて培われた美意識によるみたいだ。

もちろんその美意識の少なからぬ部分には、確かに理論の美しさが反映されている。とはいえ、一旦それを体得した人間の美意識に基づいている。

アベイラブル・ノート・スケール

私はフロント楽器で長らく演奏しているのですが、当初、いわゆるバークリー理論といわれる「アベイラブル・ノート・スケール」というものをとても難しく感じた。はっきりいうとよくわかなかった。

個人的にはソロのトランスクライブを繰り返し、帰納法的に理論をなんとなく見出してアドリブができるようになった。

だから、アベイラブル・ノート・スケールって要らないよな、と思っていた。

さて、しかし、10年前くらいからピアノを触るようになったのであるが、そこで感じるのは、アベイラブル・ノート・スケールが、非常にしっくりくる。非常にわかりやすい。
正確にいうと、やはりこの理論がアドリブの時に役立つ感じはないけど、楽曲を分析したりアレンジしたりするときに、ピアノを弾きながらあれこれ試行錯誤するわけだけれども、この時は理論的なアプローチが割としっくり手に馴染む。

つまりは、アベイラブル・ノート・スケール理論は、ピアノとか和音などをある程度視覚的に確認できる前提であれば、比較的理解しやすいのかもしれない。
音大などで音楽を専科として学ぶ場合は、副楽器として当然ピアノに触れるだろうし、その前提が当然となっているコミュニティにおいてディスカッションするにはこうした理論が効率的ではないのだろうかと思う。

ただし、個人の裁量権が大きい単音楽器のインプロヴィゼーションにおいては必ずしも頭の中で理論体系を想起しているわけではない。
もちろん想起してもいいと思うが、想起することが必要条件ではないように思われる。

うーん。難しいな。このニュアンス。
理論から演繹的にアドリブを生み出すのではなく、美しいと思われるアドリブありきで、そこから帰納的に理論を生み出すべきなのではないか。


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