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自分の呪いを解いたこと・あるいはTwitterを辞めた時の話②

・フジロックの2日目に行ってきた。

・フォロワーの皆さんはご存じのこととは思うが、私は去年の8月からうつ病を患っている。以前noteで書いた時に触れた通り、私が鬱になった理由の一部は昨年の「オリンピック開会式炎上騒動」にある。Cornelius(もとい、小山田圭吾)という、自分の音楽的感性を形成する上で大きな役目を果たしてきたミュージシャンが連日のように不名誉な報道をされ、本人のみならずその息子や関係者までもがTwitterで有象無象からバッシングを受けている様子を見るのは拷問に等しい苦痛だった。
自分の知っている『小山田圭吾』が、観測できる社会において、ミュージシャンから極悪非道の犯罪者のごとき肩書きにまで引きずり下ろされた(ように見えた)。彼の音楽を今まで享受して育った自分も同じように否定されている気分になった。

・発症間もない頃は彼の名前を見るだけでもTwitterで見た罵詈雑言や不正確な報道、同時期に起きた出来事の記憶が思い出されて苦しい思いをしたが、だんだんと月日が経つにつれて苦しさが減り、作品に触れたり、本人の発信した情報を見ることができるようになってきた。しかし、心の片隅でしこりは残り続けた。

・去年の7月からずっと残り続けていたそれを私は呪いと呼んでいた。今回フジロックに行ったのは、Cornelius復活の場を直に見ることでその呪いを解くためだった。

・結論から言うと(タイトルで書いてしまったが)呪いは解けた。

・Corneliusは22時からだったので、それまでさまざまなミュージシャンのステージを見た。自分と同い年でありながら、一人の音楽家として地位を確立し、謙虚に活動する崎山蒼志。民謡的・演歌的な意味での日本らしさを宿しているのに一聴して現代だとわかる新しさを持った曲をグリーンステージに響かせた折坂悠太。3日目のホワイトステージで鈴木雅之が「音楽は心のワクチンだ」と発言をしたように記憶しているが、初めて生で触れたそれらの音楽は、自分にとってワクチン以上の機能を持っていた。思えば呪いにかかってからプロの演奏をじかに聴く機会など一度もなかった。

・22時のホワイトステージでCorneliusは帰ってきてくれた。「MIC CHECK」から始まり、「Point Of View Point」への鮮やかな繋ぎ。「Another View Point」のサンプリングの嵐。「夢の中で」の歌詞と共に進行するアニメーション。「I HATE HATE」で轟くギター。「STAR FRUITS SURF RIDER」のやさしさに満ちたボーカル。つま先まで痺れるほどの低音を鳴らすシンセベース、Corneliusらしさに溢れる柔らかいエレピ、正確さとパワフルさの同居する無駄のないドラム。そして映像と音の同期。あっという間に過ぎた1時間の中で一体何分泣いていたかわからない。Corneliusと同じ時代に自分が生きていて、演奏を実際に聴けたことを心底嬉しく思った。


・ここまで読んでくれた人、特にフォロワーの中で、まだCornelius/小山田圭吾についての認識が昨年7月に報じられた「障害者に長年陰惨な加害行為を働いてきた人物」で凝り固まっている人がいたら、どうかお願いだから事実を調べてみてほしい。本人は何度かにわたってSNSやHPで「実際の在り方とは異なる報道がされていた」と釈明をしているし、釈明を裏付ける第三者の調査なども現在まで行われている。(しかしあの炎上ほど知られてはいない。)

・学生時代いじめに関与していた場面はあったし、オリンピックの音楽を手掛けることに賛否が起こったのは当然だとは思う。しかし、本人がやっていないことまでやっていたことにされて、過剰にバッシングされるのは絶対におかしいし間違っている。私が今問題だと思っているのはそこだ。

・雑誌でのインタビュー→編集者による改悪→発行→某ブログでの恣意的な切り抜き→2ちゃんねるでのコピペ化→Twitterでの大々的な拡散と炎上→毎日新聞による報道→モーリーロバートソンによる二次報道…と無茶苦茶なソースロンダリングが行われ、膨れ上がってしまった。インフォデミックの最も最悪な例ではないかと思う。

・ここから先はほとんど文句に近い。

メディアも大衆/有象無象のTwitterユーザーもセンセーショナルな言葉を用いた情報を広め、煽るだけ煽っておいて、責任は取らない、訂正はしない、謝罪はしない。信じ込んだ小山田圭吾=悪人の等式の上で「俺は俺は」と意見する。

一年以上経過した今になってもまだ適当な報道がされていることにげんなりする。津田大介が指摘しているように、「マイクチェック マイクチェック」という言葉は観客への呼びかけではなくアルバム『FANTASMA』に収録されている1曲目の「MIC CHECK」で冒頭に流れる音声で、これまでのライブでも演奏されてきた楽曲だし、CorneliusがライブでMCをほとんどしないのはいつものことだから「その後は活動再開についてとくに触れることはなく」という書き方にも違和感を覚える。あえて触れなかった訳ではない。少し知識がある人間ならこんな記事は絶対に書かないのに、門外漢に任せているからこういうことが罷り通る。一体朝日新聞は去年の報道から何を学んだんだ。

・田中知之(FPM)の【視点】が沁みる。

音楽家とは、音楽を奏でることに自分の人生を捧げる覚悟をした人間のことだ。そして、その覚悟だけは音楽家本人のものである。

・Corneliusが関わっていたNHKの「デザインあ」は「デザインあneo」と名前を変えて復活した。音楽の担当からCorneliusの名前は無くなっていたが、番組の放送を続けることには大きな意義があると思うのである程度支持したい。

・「デザインあ」は、自閉症や発達障害を持つ子どもたちからも大きな支持を集めていた(Twitterで親御さん方の話を読める)。
以前Twitterで私が番組の再開に関してツイートした時に、バッシングをしている層の人間から「小山田圭吾は障害者にあんなひどいことをしたのだから、障害者施設でボランティアをするなどして更生につとめて欲しい」という旨のリプライをもらった。「それをおれに言ったところでどうにもならねえだろ」と思ったのは勿論のこととして、そもそも小山田圭吾は過去を踏まえた上で音楽家・Corneliusとして番組に携わり、(障害のあるなしに関わらず)多くの子どもに探究心や落ち着き、発語といった喜びをもたらしていたわけであり、音楽という彼が持つ技能を用いた最大限の貢献、あるいは贖罪を果たしていたと思う。そういう意味でもデザインあの音楽はCorneliusにしかできないユニバーサルな仕事だった。件のリプライはそれを無視したあまりに画一的な発想で、そのユーザーの視座・思考力の低さを物語っているように感じられて仕方なかった。

・長くなってきたのでそろそろ締めたい。

Corneliusの復活を苗場まで赴いて直接見届けたことで、自分のうつ病の根源にあったものとひとつの決着がついた。ついでに創作意欲も刺激された。しかしまだこれは通過点に過ぎない。あとは私が呪いにかけられていた事実をどう消化しながら活動していくか、残りの原因をどう取っ払って生きるか、という段階に突入する。
うつ病を発症した去年の8/9を以って、それまで自分が音楽的活動に使用してきた「小宮山倫太郎」という人格は明確に死んだ。約1年の休眠を経た今、この通過点を受けて私は新しい人格を得る。

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