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自分を応援する。

頭の中で「こんな感じ」と思い浮かべたり、自分が好きな感じの絵がいつまで経っても描けない。
世の中には好きな絵や立体作品がいくつもあるのに、自分が何かを描いたり作ろうとするとどれにも全く近づけないというか、こうしたい、こうありたいと思う何かに気持ちは近づこうとするのに同極の磁石が反発するように寄っていけない。
なぜだろう。
冷蔵庫の中の材料でチャーハンや親子丼を作る時なら「想像通りか、想像したより結構美味しいorイマイチ」と誤差は少ないのに、絵や物づくりでは頭でイメージしたことと出来上がるものの差が埋まらないんだなぁ。なぜだぁ。

思い返せば小学生の頃、「お話を絵にするコンクール」に参加するためだったか、テープで昔話(民話)の朗読を聴いて各自でイメージして一枚絵にする授業があって、聴きながら頭に浮かんだのは千夜一夜物語のような世界だったのに、自分が4つ切り画用紙に描き始めたのは金髪碧眼で白いファー付きマントと王冠姿の王様とシンデレラ城みたいなアンデルセン童話風の絵で、「でも違うよなぁコレ」と思いつつ最後まで突き進んでしまった。
苦し紛れにマントの色を紫に、お城はどこかイスラム建築のモスク風の形状に寄せたものの、他の人の多くはきちんとターバンを巻いた王様を描いていたり砂漠を表現していたので自分の絵は悪目立ちしてしまった。それなのに私の絵には賞の札が貼られた。美術の成績はよかった方だけど自分の絵には心がないというか、素直な感動が紙にほとんど載っていない。そんな自覚が当時からあった。
今もNHKの『no art, no life』という番組の「アール・ブリュット」や「アウトサイダー・アート」と呼ばれる作品や制作風景に触れると「すごいなぁ」と息をのんでしまう。

大人になったある時、私の作るぬいぐるみやイラストを見た人から「kumちゃんってファンシーだよね(笑)」と言われたことがあり、彼女はスズキコージの絵本や景山民夫のエッセイなどをすすめてくれるようなカッコいい人だったので指摘は的を射ていると思うのだけど、作品を通して内面のチープさを見透かされたようで恥ずかしかった。
また、絵本のワークショップに通っていた頃に子育て中の知人に原稿を見てもらうと「かわいい。優しい絵だね」というような感想のあとに「今うちの子どもたちが大好きな絵本はこれなんだよー」と教えてもらったのがトミー・ウンゲラーの『すてきな三にんぐみ』で、「そうなんだよねぇ。私もこういうのが好きなくせに自分の描くものはこっちじゃないんだよなぁ」と勝手にしみじみ落ち込んだ。
ファンシーやかわいさもとことん突き詰めれば一つの確固たる世界観になるし、私もその道を徹底的に進めば筋が通ってかっこよかったのだけど、自分的には民藝やらガロ的な世界への憧れもあって、点取り占いのようなヘタウマの世界にも憧れるんだけど結局ファンシー寄りになって、そのうち量産品(雑貨等)の仕事をするようになってからはお客さん(クライアント)の求めるものにこたえようと、個性や作風について考えない人生になり、ここまで生きてきてしまった。

とはいえ、これは悩みというよりもはや長年の癖のようなもので、いつも靴のかかとの外側がすり減ることや、まぶたの上の皮膚が重いので知らぬ間に目を見開いてしまい額にシワが寄ってしまうとか、どうでもいいことで無駄遣いをして後悔することや苦手な人に愛想笑いをしてしまうことなどときっと同じようなものだろう。

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閑話休題。
私は2019年からハニホ堂という屋号で、自作の何かを売るイベントに出たりしています。

仕事と関係なく、「自分の作品」などと思いつめることもなく絵を描く作業は心を空っぽにできるので、クッキーを焼いたりするときに似た愉快さと、編み物をするときのような中毒性もあって、最近趣味としてようやく絵を楽しめる状態になってきた感じです。
ただ「何を描いてもいい」「自由でいい」という状態は厄介で、描きたいものなどもともとない私が何かを描くために決めたのが「いろはにほへと」の順にイラストを描くとか、色を決めてそれだけを集めた絵を描くなど、何か縛りを決めることでした。

下の画像は2019年から続く【色いろいろ】シリーズで、時々散歩のときに特定の色探しをするのと同じように、一色ごとに描いたものたちです。
2022年までに10色11点を作って販売(個人のお客様に)しました。

そろそろ色が出尽くした感があり2022年の「何か茶色いもの」を最後に止まっていました。そもそも誰も新作を待っていないのでなんの支障もなく(笑)

2024年がはじまり、1月にもう何十回目かで『ガラスの仮面』を読み返して「紫のバラの人」という呼び方、マヤがそう呼ぶのはともかく本人(速水真澄)がそう呼ぶのが変だよなぁと思ったり、紫式部の生涯を描く大河ドラマを楽しみに観ていたり、今年5月のデザインフェスタVol.59(2024年5月18日(土) 10:00 〜 18:00のみ参加)に参加することが決まっていることもあって、「何か新しいの作らなきゃ→今度は紫にしよう」となって久しぶりに描きました。

紫って、紫のバラの花束にしても、スパンコールのついたステージ衣装だとかお寺さんの法衣にしても、どうも煌びやかさや重厚感、エレガントさがポストカードに向かない気がして、なので今回はいつもより積極的にファンシーに寄せてみました。
子ども時代からの憧れブルボンルマンドとサクマ式ドロップスのぶどう味(復刻版のもの)を入れてみたのがポイントだけど、大好きな紫芋のチップスを入れるの忘れた…マカロンとかリボンを入れている場合じゃなかったと反省です。

今日は立春。昨夜、節分の日から今日に切り替わる0時ちょうどに、穴八幡宮の「一陽来復」のお守を恵方に向けて壁に取り付けました。新しい一年がここから始まる気持ちです。

自分には陰でずっと応援してくれてお金も出してくれる紫のバラの人はいないけど、自作自演というか、ファンというよりマネージャーくらいの気分で自分自身を応援してゆくことは出来るのではないかと思っています。
あるいは、自分の作品ではなく店主として「私どもの商品いかがですぅ?」的なスタンスになったら自意識から解放されそうな気がする。自分自分と思うと「こんなはずじゃないんだけどなぁ」とうじうじするけれど、半歩でも引いてみれば「ここが残念だけどここを伸ばせば面白い方向に行くかもよ〜」と自分を上手くおだててプロデュースできたりして。

いつかファンシーな中にも骨太のかっこよさ、または笑っちゃうほどへなちょこな脱力感が宿る日が来ることを願って。
そんな2月のはじめです。