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京都の伏見稲荷大社に隠された背乗りの歴史物語をひもとく☆
伏見稲荷の旧社家として、秦氏と、荷田氏をまつる社(やしろ)が、並んでまつられている意味とは?!
伏見稲見稲荷大社の奥にある小さな社、長者社には、当社の旧社家、秦氏=渡来人をまつる、とあります。
渡来人の秦氏が来る前からここは聖地であり、古くからいた荷田氏が社家を勤めていましたから、いわゆる背乗りしたわけです。
山城国風土記逸文には秦公伊侶具(はたのきみのいろく)が稲荷神を祀ることになった経緯が書かれています。
711年(和銅4年)2月壬午の日に、秦公伊侶具が勅命を受け伊奈利山三ヶ峯(稲荷山)に三柱の神を祀ったことに始まると。とはいえ、その前から荷田氏によって元々の神様がまつられていた聖地に背乗りしたわけです。
秦氏の基は?
日本書紀はあくまで権力者の都合よく書かれた歴史書ですが、それによると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済(くだら)から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったとあります。しかし、百済を経由してきたという話で、百済出身でもルーツはヒッタイトのシルクロードの弓月國から来たのが秦氏系で、なので、養蚕や機織り、製鉄や開拓や土木工事、鉱山開発の技術を持っていたわけです。
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