ゆたぼん ボンボン まゆ毛ボーンの巻
一発目のネタがコレなのは、非常に不本意ではあるが、書いてみようと思う。少年革命家ゆたぼん君のお話である。
このクソガキの事をTwitterつぶやいたりすると何故か絡んでくるアホが一定数いるのである。理解できない、本当に謎である。
ゆたぼん君を見ていると私は、昭和の終わりから平成の最初に流行した茶番「一杯のかけそば」を思い出す。一見関連性のない物の様に見えるが、二つとも「バカを見分けるリトマス試験紙」としては非常に優秀な物だと言うのが二つの共通点である。
まず「一杯のかけそば」について説明しよう。
1988年の大晦日の年越し番組「ゆく年くる年」にて朗読された、実話を元にしたとされる童話で、ざっとあらすじを言うと、毎年、暮れになるとお世辞にも綺麗な恰好をしていない親子3人連れが、かけそばを1杯だけ注文し、その時のそば屋の店主の丁重な態度が励ましとなり貧乏から抜け出し、かけそば3人前を注文しそば屋店主にその顛末を語り、立派になった息子二人と服装が小奇麗になった母親が、そば屋店主にお礼を言うという物語だ。
そして、この物語がインターネットなんてなかった当時でも度々論争になっていた。「素晴らしい美談でこんなに感動する話はない」という層と「そば屋で1人前のそば買うお金があれば、スーパーの特売で3人分買えるだろ?こんな茶番はない」という層で意見が分かれた訳で、「すばらしい美談」派が多数を占めていたわけだが、結果この「一杯のかけそばブーム」は、作者のダーティなスキャンダルが週刊誌にスクープされた上に、作者本人が作り話と白状してブームは終焉していったと記憶している。
ここで件の「ゆたぼんくん」である。
このただの不登校児である自称「少年革命家ユーチューバー」ゆたぼんくんについて今、ネットなんかで意見が二つに分かれている。
大まかに言うと「勉強は学校に行かなくてもできる、ゆたぼんくんは自由に生きたい様にいきている、それの何が問題なのか?」の層と「学校は勉強をするだけの場ではない、子供の将来が心配、親はまともじゃないんじゃないか?」の層に分かれている、私はもちろん後者である。
そもそもゆたぼんくんの父親というのも元暴走族の副総長ってのが自慢で、よく分からない商売をやってるおっさんである。人を見かけで判断するなと綺麗ごとを言う人がいるけど、私は人は見た目が9割だと私は思っている。あの風貌で昔、不良だった事を自慢するような見るからに詐欺師みたいなオッサンのガキが、学校にも行かずに調子乗ってる姿を見て「勉強をするのに学校に行く必要がある日本は遅れてる」とか言う脳科学者なんて、他人の脳みそを研究しすぎて自分の頭の中にババロアが入ってる事に気づいてないんじゃないか?と人間性を疑ってしまう。
仮に東大卒の学力があっても不登校で中学しか出てなければ中卒なわけだから、就職するにあたって、応募資格が「高卒以上」の企業には応募すらできない。ゆたぼんくんはよく「俺はYouTubeを通じて色んな人と出会って学んだから学校に行く必要なんてない」と言っているが、履歴書の自己PRに「学校には行ってないけど色んな人に出会っていっぱい勉強した」とでも書くのであろうか?それは、「自宅にサーキットがあって子供の頃から車の運転をしていて、運転が上手いので車の免許はいりませーん」と言っているのと一緒ではないのか?
車の運転じゃなくても電気工事だって危険物の取り扱いだって、例え知識があって、取り扱いに長けていても、正式な試験を受け資格を持ってないと公の場では触らせて貰えない。なぜそんな当たり前の事が、いい大人たちが考えつかないのか?私は不思議で仕方ない。
今はYouTubeの広告収入や、父親の収入が十分にあり不自由のない暮らしをしてるかと思うが、今や有名タレントが次々に参入しているYouTubeで彼の動画が今後も安定した広告収入を得られるとは思えないし、控えめに言ってもきな臭いとしか言えない彼の父親がスキャンダルにより没落する可能性だって考えられる。そう一杯のかけそばの作者の様に…
果たしてゆたぼんくんを支持している人たちは、ゆたぼんくんが本当に将来安泰とでも思っているのだろうか?それとも奈落の底に落ちるのを楽しみにしているのだろうか?私はどうでもいいと思いつつ、1人の少年が奈落の底に落ちるのが目に見えてるので、ゆたぼんくん本人より彼を客寄せパンダに使い奈落の底に突き落とそうとしている彼の父親に憤りを感じる。
ここで、ゆたぼんくんのファンに質問です。あなたは家族3人でそばを食べたいけど¥400しか手持ちがない場合どうしますか?富士そばで¥310のかけそばを3人で分けますか?スーパーの特売の¥98のカップそばを3つ買いますか?
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