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ふたつの心臓
「どちらでもいいよ」
目の前のひとは、そう言った。
慈悲深い微笑みだった。
「どちらでもだいじょうぶだよ」
わたしは愛され、許されているのだと思う。
目の前の想いから逃げ出そうとするのは、さすがに往生際が悪いというか、なんだか違う気がした。
深く吸い込んで、満たしてゆく。
「あなたの考えを支持するし、応援するよ」
告げられたやさしさはあたたかな空気となって、きっちりと肺の半分に収まった。
*
もう半分は、雨に打たれていた。
強い雨だった。
わたしはいま、「やさしくしてもらう必要がある女」だった。
強い決断をした。
決断はもう何度か襲いかかってくるだろう。
いくつかは、いや、もしかしたらすべてが、「少ししたらささやかだと思えること」かもしれないけれど
えいっと振り絞る瞬間は、易くなかった。
わたしは浅い呼吸を繰り返す。
反対の肺から流れてくるあたたかな空気と、なんとか中和しようともがいた。
いや、中和などするべきではないのかもしれない。
わたしは、どちらの温度も忘れてはならないのだ。べつべつの存在なのだ。同じからだなのに。
やさしく、あたたかく守られるわたしは
目の前のひととは、別の生き物なのだ。
だからやさしくしてもらえるし、
だから「どちらでもいい」と言われたとき、わたしは選ばなくてはいけない。
自由と引き換えに、決断を。
わたしが選んだのは、そういう生き方だった。
誰かに手を引いて欲しいそのときも、ぎゅっと笑ってやらなくてはならない。
「どちらでもいい」いう言葉は、愛の果てであり
別々の個体である証なのかもしれない。
最近は、そんなことを思う。
目の前のひとはもしかしたら、自身のことでも「どちらでもいい」と言うのかもしれないけれど。
だいじょうぶだよ、好きにしていいよ、とか、やさしくするとか
そういうことって、他人だから成立するのかもしれない。
だってあなたは「休んでいいよ」「だいじょうぶだ」って言うけれど
わたしは「なんかさぼっちゃったなあ」って思うよ。
折り合いって難しいね。
*
あたたかさに溺れながら、強い雨に安堵するわたしがいる。
もう気づいている。
あたたかさに溺れさせてもらえるからこそ、強い雨にも立ち向かえるのだと。
それでも、わたしは晴れを望まないような、どちらでもよくない生き方をする。
あなたを愛している。
あなたの心臓にはなれないけれど。
きみなしでは生きていけないって、そういう言い方は嫌いだって
そう、その通りだよ。
いてくれてよかった、と何度思ったとしても
べつべつの生き物であることを
あなたも決して、わたしの心臓ではないことを。
これからも、寂しいなんて言いたくない。
言い訳みたいにはしたくないんだ。
【photo】 amano yasuhiro
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