僕だけのさびしさ
さびしくてたまらないとき、君を抱きしめることを辞めた。
*
「今日は帰れない」と連絡がきた夜に、このエッセイを書いている。
同居人は、ときどき帰ってこない。
そのたびに電話をかけていて、深夜の執筆中のわたしを苛立たせた。
わたしは、執筆中に声をかけられることをとても嫌う。
30をとっくに越えたおとなが、深夜にどこにいようと構わないのだ。
愛があるなら、「帰れない」の一報だけ欲しい。
「帰れなくてごめんね」と、言われることも嫌いだった。
べつにわたしは、君がいなくても平気だし、謝られる対象なんかじゃない。
わたしがいなければ、「ごめんね」なんて言わせずにすんだのに。と思うことに疲れた。
そんなふうに思わなくていい、というのはわかっている。
元気なときにはきちんとそうできる。
でも、家にいるときは飾らずにきちんと落ち込んでいる時間もあるのだ。
今日は電話もかかってこないし、「ごめんね」も言われなかったので気分がいい。
急にひとりになった夜の時間を、どう過ごそうか考えている。
別にひとりだろうとふたりだろうと、わたしたちは勝手に過ごす。
それなのに、ひとりに浮かれる。
ひとりでもふたりでも構わない、と思えるのは
たぶん基本がふたりだからだろう、ということには気づいている。
「ルールに縛られているから、自由があるんだよ」
みたいなことを、昨日言っていた。
たぶん、そうだと思う。
中学生のころ、生徒会は副会長の茜先輩が仕切っていた。
清水会長は、いつも困った顔で笑っているような印象だった。
「茜先輩が会長になればよかったね」
ひとつ年下の副会長だったわたしは、母に言った。
「清水くんがいるから、茜さんは自由にできているんだろうね」と返されて、なるほどなと思った。
なるほど、そういうことはよくある。
いまのわたしたちの暮らしみたいに。
*
ひとりの夜になにをしようか考えて、有料エッセイを書くことにした。
同居人が家にいると書きづらい、とかそういうわけではない。
ただ、最近は書きたいネタを拾う能力と、それを書き上げる気力がうまくリンクしなくて、
メモはあるのに「書くことがないなァ」と思う日々だった。
せっかくだから、というのも正しいかわからないけれど、
先月末に「7月は有料エッセイもたくさん書きたいです」と言ったフラグを回収しようと思っている。
*
エッセイを有料にする理由は大きく分けてふたつで、
ひとつは、誰かを傷つけそうな内容のとき。強い言葉を使うとき。
もうひとつは、特定の誰かについて書くとき。その誰かを特定して欲しくないとき。
そういう、内緒話をするのに有料エッセイを使っている。
というのが当初の目的ではあったのだけれど、最近はこうして、手紙みたいにつらつら書くことそのものがおもしろいなあ。と思っている。
あんまり、読みやすさとか伝えたいこととか、気にしていない。
当初は「有料でしか書けない内緒話をしてみよう」と思って有料エッセイを始めてみたんだけど
そんなに都合のいい内緒話なんて、そうそうなかった。
内緒話ってほんとうは、友達に話せればそれでいいんだ。わざわざエッセイにする必要ない。
でも書きたいって不思議だ。
今日は書いてみよう。
わざわざ、有料で。隠して。言いづらいことを
言葉の海を泳ぐように、BGMをマトリョーシカに設定してから飛び込んだ。
*
同居人がいない夜に、家族のことを書こうと思った。
わたしらしくていい、と思う。
結局、内緒話は同居人のことになってしまうことが多い。
このエッセイは、同居人との共通の知人もたどり着ける仕様になっている。
かつて、同居人の妹から「いいね」をもらったときはヒヤッとした(文句を書いたエッセイだった)。
同居人の個人的な部分をおおっぴらに書くのは申し訳ないし
良い思い出を書くのは恥ずかしくて憚れるし
文句を書くと言葉尻がキツくなって攻撃的になってしまう。
「こんなにイライラさせられるのは君だけだ」みたいなことを言われて、落ち込んだことがあった。
一緒にいないほうがいいんじゃないか、と思った。
でも結局のところ、お互いそういうことだった。
友達だったらうまく気づかえるのに、家族にだけはうまくできない。
甘えを消せなくて申し訳ないなァと思うし、やっぱりお互いさまなのだ。
そういう、身の丈なのだ。我々は。
*
*
*
「ときどきね、誰かにいてほしいと思うことはあるよ」
ひとり暮らしだったり、恋人のいない友人にそう言われることがある。
逆にわたしは「コイツさえいなければ」と思うことが多い。ないものねだりだ。
だって、「いなければ寂しいし、いると煩わしい」のが恋人だ。
もう何年も前に、江國香織が言っていた。
わたしの教科書にもそう書いてある。
結局のところ、ひとりの寂しさか、ふたりの煩わしさに耐えるしかないのだ。
と、いつもこんな話になる。
そんなこと、おとなになったわたしたちはみんなわかっている。
この世の中には、恋人のことをずっと「推し」みたいに愛せる人もいるらしいけど、わたしにはむりだった。
むり、と言えるくらいがちょうどよかった。
身の丈に合っている。
これから同居人と何年過ごすかわからないけれど、
終わりがきたときに「半分くらいはうざかったな」っていうので、ちょうどいい。
最近はそんなふうに納得できるようになった。
ずっと「推し」と思っているような深い愛がないわたしは、だめなやつなんだ。と思っていた。
でも、だめなやつでいいんだ。と折り合いがついた。
ここから先は
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
スタバに行きます。500円以上のサポートで、ご希望の方には郵便でお手紙のお届けも◎