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才能について

最近ずっと、気になっていることがある。

いや、たぶん最近じゃなくて
ずっと気になっていたことだと思う。

この、「気になっていたこと」を
具現化しようと思う、キッカケとなるコメントをいただいたので
今日は、わたしの気の済むまでこの話を掘り下げたい。

わたしが失業したと話したときか、
このご時世でライブを辞退・自粛したいと話したときか、
どちらかはっきり覚えていないんだけど、
そのときにFacebookで「才能を磨いてお過ごしください」というようなコメントをいただいて

コメントもらったことは非常に嬉しくて、
嬉しい以外のなんでもないことは、ご理解いただいたうえで

才能かあ、と思った。

いま、わたしのnoteのコンテンツを
RPG風に「アビリティ」というならば、
文字を書く(エッセイ、詩)
音楽を演奏する(ピアノ、うた)
音楽を作る(ピアノインスト、弾き語り)
動画を作る(友達の写真を並べて編集する)あたりになるんだと思う。

このアビリティは、わたしの才能になるのだろうか?

もういい年なので、昔みたいに
「え〜ピアノなんか弾けないよォ」とか、根本的にそういう話ではない。
ライブハウス以外で仕事をするようになって
ピアノを弾けることは、ある程度「アビリティ」として認可されることを学んだ。

ただ、それが「才能であるか」と言われたら、甚だ疑問である。
……疑問しかない

才能、という言葉の取り扱いが、そもそも得意ではないのかもしれない。
わたしもふつうに、他の人の演奏を見て「めっちゃ才能あるなあ」って
思ったり言ったりすることはある。のだけれど。

この、才能というのを「天に与えられたもの」的な
先天的な素質、みたいな見方をすることに対して、違和感があるのだと思う。
本来、努力値的な意味合いもある言葉だと思うんだけど……
前者の比率が高いようなイメージだ。

わたしの友人のひとりは漫画家で、
また別の友人は、バンドでギターを弾くことでお金をもらっていた。

このふたりはそれぞれ、漫画を描く、ギターを弾く、という行為に着手するのがそんなに早くなく
二十歳前、とか、二十歳過ぎたころとか、それくらいだったと記憶している。
漫画家は少し絵を描く文字描きだったり、
ギタリストは、完全なサッカー少年だった。

同年代でプロにいったこのふたりに
悔しいという思いがまったくなかったといえば、嘘になる。

でも、そんなことよりも
わたしは、このひとたち以上に、漫画に、ギターに、向き合った人を知らない。
こんなに描き続けたり、弾き続けたり、勉強したり、
わたしにはとうていできなかった。

努力することが、努力を続けることが才能、
みたいな言葉がよくあるけど、まさしくそれだった。
わたしは絶対に、同じくらい努力できていない。
プロになったから、描き続けたとか弾き続けられたとか、そういうのもあるかもしれない。
環境がどうあれ、賭けてきた時間が嘘ではないことを、わたしは知っている。

もしかしたらこのふたりは、
自分の才能を見つける才能を持っていたのかもしれない。
運を持っていたのかもしれない。

そういう見方もできるけど、
でもなあ、あの漫画家は凝り性の見栄っ張りだから、テディベア作らせてもアクセサリー作らせても、ちまちまこつこつ真面目にやるし
あのギタリストの10年前の姿を思い出すと、だいたいギター抱えたまま寝ていたし、「でも」とか「だって」をあまり言わず、何事もスポンジのように、いつもまっさらなキャンバスのように、なんでも吸収していった。

そういうのを才能っていうのか、性格っていうのか。
わたしにはよくわからないけど。
わたしはとうてい真似できないなあ、と思ってしまう。

昔ライブハウスで働いていたときのPAも、器用な凝り性、オタク気質なひとだった。
だからなんでも調べて学んでいった。
7,8年くらい一緒に働いたが、
最初は、レコーディング経験がほぼ皆無な状態から、レコーディングをして、マイクを買って、
気づいたらカメラも買って、写真を撮って、動画まで作れるようになっていた。
最終的に、録音からミックス、デザインまで経て入稿
演奏以外のすべてをひとりでできるようになっていた……驚異、すごい。
わたしは、このひとが、ただのライブPAだったときのことを、覚えている。

彼が作ったものの話を、わたしはずっと聞いていた。
あるとき、写真か映像作品に対し、「すごいね」と話したとき、
彼がしれっと言ったことを、わたしは今でも覚えている。
町田の、西友前を歩いていたときだってことも。

「だって、時間もカネもかけたから」

この言葉は、いまでもわたしのこころの倉庫の中に、きっちりとしまわれている。
マイクを買って、カメラを買って、Macを買って
録って、撮って、作って、試して
このひとがずっと頑張ってきたの、わたしずっと見てた。

このひとたちの、何が才能なんだろう。
いろいろあると思うんだけど、
どうかそれを、「先天的なもの」という意味合いでは片付けたくない。
培ってきたんだ、努力しかないんだ、
最初から漫画描けたわけでも、ギター弾けたわけでも、写真撮れたわけでもないんだ
君たちのはじめてや、はじめての頃、をわたしは知っている。

わたしは、この友人たちに、胸を張れるものは何もないかもしれない。
いやでもまあ、いまでもわたしのことを友達と言ってくれるのだから
たぶん、わたしの良いところってのは、あるのだろう。と、思う。

「才能を磨いてお過ごしください」、
わたしには磨く「才能」は、きっとない。

でも、磨かなければ才能かどうかもわからない。
宝くじも、買わなきゃ絶対当たらないのと一緒だ。

「才能を磨いてお過ごしください」、
それは、「いまわたしが石ころだと思っているものを、磨いてみること」なんだと思った。そう受け取った。

わたしの友人たちだってきっと、
自分のアビリティを「才能」と誇っているわけではない。そんな気がする。

結局、才能の答えはわからない。
友人たちが持っているものについては、心から尊敬しているけれど
あんまり、才能って言葉はふさわしくない気がするな、やっぱり。
才能って、「訓練によって培われたもの」みたいな意味もあるらしいけど…

わたしがきみに「才能あるなあ」っていうことがあったら
それは、「きみはたくさんの経験や、すごい努力をしてきたんだな。それが滲み出ている気がするよ、すごいな」て意味で受け取って欲しい。
言葉って難しいな…

「ピアノしか弾けないから」っていうニュアンスもあんまり好きじゃない。
なんだろう、
「ピアノは弾ける」のほうがしっくりくる。

「ピアノは弾ける」「ブログは書ける」
弾きたいか書きたいか、それはもうわからないけど
いや、辞めたあとの未来にあまり興味が持てないんだ。
まだまだ知りたいんだ。

だから、続ける。

それが才能だったかどうかは、
もっと時間が経ったあと、
わたしではない誰かが、見極めてくれたら本望だ。

そして、何も残らなくても
何もしなかったこととは違うから。

わたしの人生は、
それでひとつ意味を成した、と思っている。

そう思いながら、わたしは今日も
足元の石ころを、転がしてみたりしている。


photo by @TripGirrrrl


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