百年の祈り
4月に、吉本ばななさんの「とかげ」という本を読んだ。
3月中は本を買いすぎてしまって、どれもよくて。
本棚の積載量を考えると、買ってばかりもいられない。
ということで手持ちの、内容をちょっと覚えていないような本を手に取った。
この本が、いつから本棚にあるかわからない。
ブックオフの値札がついていたから、二十歳くらいから、二十代の中頃に買ったんじゃないかなあ。と思う。
町田のブックオフが好きだった。
広いフロアで、4階くらいまであった。
いまはあるかわからないけれど、当時はよく通っていた気がする。
*
小説の内容っていうのは、覚えていないけれどきちんと思い出す。
なんというか、匂いみたいなもの。
ときどき「ああ、知っている」と思う。
どれだけ忘れたような気がしても、初めて見聞きするような、あのときめきは永遠に手に入らない。
それはそれで美しいことだ、と思っているのだけれど。
むかしはなんとなくそれが嫌で、
同じ本ばっかり読んでいるというのも、視野が広げられずに格好悪いと思っていた。
でも、小説の好き嫌いっていうのが結構はっきりあって
あのころは、江國香織さんと、吉本ばななさんの本ばっかり買っていた。
あとは、鷺沢萠さん。
わたしの本棚には今でも、ブックオフの値札がついた彼女たちの本が多い。
*
おとなになって、こんなせりふに共感した。
二十代の中頃のわたしにはわからなかった、と思う。
あのころわたしは、ひとりの部屋に好きなものを並べて暮らしていた。
それが当然で、分身だなんて思わなかった。
いまは、ちょっとわかる。
確かに、分身だと思う。
そして、懐かしいせりふに出会って息を呑んだ。
たしかに、懐かしいと思った。
一体いつのわたしだろう。
20歳の、23歳の、怪我をしたときの、恋人と住んでいたころの、ひとりで座ったキッチンの、そして30歳の
たぶん、すべてのわたしだと思う。
わたしはいつも思う。
わたしも飛び込まなくては、と。
それは、今のわたしがあんまり飛び込めていない、ということを意味している。
いつもそう。いつも足りない。
飛び込まなくては
飛び込むことは怖い。
そして当然わずらわしいのである、ということを再確認する。
だって通い慣れた道のほうが、絶対に気がらくだ。
安全かどうかは知らないけれど。
ああ、百年経ってもどうか
魂の一部だけは、あの日と言葉に感動してくれたりしないだろうか。
あんまり器用に、立派におとなにならなくていい。
どうか、賢くて安全な道ばっかりいかないでおくれよ。
※色褪せない、ばななわーるど
※いまでも、覚えている。
このラナンキュラスの横顔、すごくお気に入りだった。
※now playing