もう、寂しくはない

グラスが、割れてしまった。
お気に入りの、キングダムハーツのやつ

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友達が、一番くじでダブらせてしまったものを買い取った。
彼女は、一等を狙って課金をしていたので、「これはわたしが買い取るから、もう1回挑戦したら?」と言って。

グラスを割ったのは同居人で、
わたしが、不安定な位置に置いていたのがいけなかった。
同居人は、何度もごめんと言って、掃除をしてくれた。

ガシャン、と音がしてグラスが割れたとき、わたしは一瞬息を呑んだ。
位置的に大丈夫だと思ったけれど、5秒くらいの間のあと「けがはない?」と言った。
そういう風に言えるおとなになりたかった。


グラスが割れたことについて、まったく悲しくないと言ったら嘘になる。
一番くじの景品だし、もう同じものは手に入らない。

形あるものは、いつか必ず壊れる
そんなことを、すんなり受け止められるようになったのは、いつのことだろうか。

高校生のとき、わたしは確かに泣いた。
友達からもらった、ミニーちゃんのグラスが割れてしまったとき。
わたしは、同じものを探そうとさえ、したと思う。

ある一定の年齢まで、そういうのはいちいち全部悲しかったのだ。

でも、おとなになってから
わたしは卵を床に落として、割ってしまったことがあった。
そのときは、ケラケラ笑いながら、床にすとんと落ちて割れた卵の、写真を撮ったりしていた。
落としちゃった、と笑いながら。
うんと昔は、絶対に笑ったりできなかったのに。
落としてしまった自分の情けなさと、落ちてしまった滑稽な卵を見て、泣いたりしたに違いない。
でも、いつの日から、平気になってしまった。


グラスが割れても、思い出ごとなくなったわけではない。
あのグラスとわたしは、しあわせな時間をたくさん過ごした。
“モノ”とは、そうやって付き合っていくべきだと、今は思っている。
一緒にいる時間を、たのしく過ごせばいい。
いつか、一緒にいられなくなったときに、「ありがとう」と思えれば、それでいい。


昔、もらったカチューシャを折ってしまったときには、慌てて友達に連絡をしたりした。
「折れちゃったんだけど大丈夫? あなたはなんともない?」と言って。

いまは、このグラスを売ってくれた友達に降りかかるかもしれない、邪のひとつを払ったのだと思えた。
不思議だ、どうしてそんなに勇敢に思えるようになってしまったのだろう。

幼き日の、センチメンタルさを失ったことも、もう寂しくはない。
もう、寂しくないんだ。



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松永ねる
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