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パティスリーと街

わたしは、吸い込まれるようにそのドアをくぐった。

病院へは、バスで行く。
9月から、気づけば半年ほど通っているので、もう慣れた道のりだった。

それでも、最初のころは不安でたまらなかった。
バスはぐんと坂を登るのもよくなかった。ずいぶん遠くまで連れてこられてしまった、という気持ちになる
そもそも、具合が悪いから病院に行くんだ。
わたしの具合の悪さのひとつは、思考能力を低下させていた。
ひとりで、あんなに大きな病院に行くのは初めてで、入ったところが2階で、西口にも東口にも入り口があるのに、検査であちこち行かなくてはいけなかった。
病院内の地図を渡されて、急にRPGの主人公になったしまった。毒状態なのに。
看板を見て、ひとに尋ねながら何度も歩いた。

1度行けばバス停の場所は覚えられたけど、バスに乗るのもなんだか不安だった。
練習していないピアノのレッスンに行くみたいな気持ち。

角の看板に、わたしは救われていたんだと思う。

大きな看板で、ケーキの絵が描いてあって、深い青をしていた。
パティスリー、と白い字で。
お店の名前は、マリオの敵キャラの名前で、なんだか親しみを持てた。
すべてに。
ケーキに、深い青に、白い字に、その名前に。

あのとき、病院ともバスとも親しくなれなかったけれど、あの看板だけはやさしかった。
看板が見えるともうすぐ病院だから少し憂鬱でもあったけれど
少しだけ、やわらぐような気持ちだった。

いつか行ってみたい、と思った。
でも、病院のふたつ手前のバス停で、わたしが降りることはなかった。

わたしは、地図とか路線図を見ることを愛している。

病院に、ほんのわずかな親しみを感じるようになったころ、わたしは地図で病院の位置を確認した。
そうして、歩き始めた。

家まで歩くことはできないけれど、中間地点までは歩けそうだった。
バスを使うルートは迂回で、直線距離はたいしたことはない。
しばらくはバス停に沿って、そこから公園を突っ切るように進めばいい。

そしてわたしは、パティスリーを見つけた。
深い青のドア。

毎週の予約がある水曜日は、定休日だった。

火曜日に病院の予約が入ったその午後
わたしはいつも通り歩き始めて、深い青のドアを見つけた。
OPENの文字を見つけたら、吸い込まれるしかなかった。

最初に、コーヒーメーカーを見つけた。
小さな椅子もあって、ここでコーヒーを飲めるみたい。
ショーケースにはきらきらと、ケーキが並んでいた。

「決まったらお声かけください」とほほえまれたけれど、わたしはケーキを買えない。
我が家までの道のりは、ケーキを買って帰るには遠すぎた。

ふいに、懐かしく思った。
わたしの街の、パティスリー。
この街に住むひとで、知らないひとはいない。
たった1軒だけのケーキ屋で、みんなそこでケーキを買う。
わたしの誕生日も、家族の誕生日も、必ず。

自分を甘やかしたいときには、クッキーを買う。
ディアマンと、チョコチップと決めている。

深い青いドアを持つパティスリーは、ずいぶんと坂の上にある。
「こんなところでもケーキを買う人がいるんだなあ」なんて、ぼんやりと思っていたけれど
ケーキ屋っていうのは、どこにでも必要なんだ。
ひとは、ケーキを持って遠くまでは行けないから。
ひとが住むところには、街と呼ばれる場所には必ず、ケーキ屋があるんだ。

坂の上のケーキ屋は、おもちゃ箱みたいだった。
または、森の隠れ家。
なんとなく小ぶりで、妖精とか小さなくまが出てきても、びっくりしないみたいな。

そして、坂の上の街にはやっぱり、おもちゃ箱みたいな煉瓦色の三角屋根が、たくさん生えていた。

ケーキを買えない代わりに、焼き菓子をひとつ買った。
黄色いふくろの、レモンケーキ。

その日の午後、本を読みながらおやつに食べた。
それはそぼくで、懐かしい気配の、純然たるレモンの味だった。





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松永ねる
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