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パティスリーと街
わたしは、吸い込まれるようにそのドアをくぐった。
*
病院へは、バスで行く。
9月から、気づけば半年ほど通っているので、もう慣れた道のりだった。
それでも、最初のころは不安でたまらなかった。
バスはぐんと坂を登るのもよくなかった。ずいぶん遠くまで連れてこられてしまった、という気持ちになる
そもそも、具合が悪いから病院に行くんだ。
わたしの具合の悪さのひとつは、思考能力を低下させていた。
ひとりで、あんなに大きな病院に行くのは初めてで、入ったところが2階で、西口にも東口にも入り口があるのに、検査であちこち行かなくてはいけなかった。
病院内の地図を渡されて、急にRPGの主人公になったしまった。毒状態なのに。
看板を見て、ひとに尋ねながら何度も歩いた。
1度行けばバス停の場所は覚えられたけど、バスに乗るのもなんだか不安だった。
練習していないピアノのレッスンに行くみたいな気持ち。
*
角の看板に、わたしは救われていたんだと思う。
大きな看板で、ケーキの絵が描いてあって、深い青をしていた。
パティスリー、と白い字で。
お店の名前は、マリオの敵キャラの名前で、なんだか親しみを持てた。
すべてに。
ケーキに、深い青に、白い字に、その名前に。
あのとき、病院ともバスとも親しくなれなかったけれど、あの看板だけはやさしかった。
看板が見えるともうすぐ病院だから少し憂鬱でもあったけれど
少しだけ、やわらぐような気持ちだった。
いつか行ってみたい、と思った。
でも、病院のふたつ手前のバス停で、わたしが降りることはなかった。
*
わたしは、地図とか路線図を見ることを愛している。
病院に、ほんのわずかな親しみを感じるようになったころ、わたしは地図で病院の位置を確認した。
そうして、歩き始めた。
家まで歩くことはできないけれど、中間地点までは歩けそうだった。
バスを使うルートは迂回で、直線距離はたいしたことはない。
しばらくはバス停に沿って、そこから公園を突っ切るように進めばいい。
そしてわたしは、パティスリーを見つけた。
深い青のドア。
毎週の予約がある水曜日は、定休日だった。
*
火曜日に病院の予約が入ったその午後
わたしはいつも通り歩き始めて、深い青のドアを見つけた。
OPENの文字を見つけたら、吸い込まれるしかなかった。
最初に、コーヒーメーカーを見つけた。
小さな椅子もあって、ここでコーヒーを飲めるみたい。
ショーケースにはきらきらと、ケーキが並んでいた。
「決まったらお声かけください」とほほえまれたけれど、わたしはケーキを買えない。
我が家までの道のりは、ケーキを買って帰るには遠すぎた。
*
ふいに、懐かしく思った。
わたしの街の、パティスリー。
この街に住むひとで、知らないひとはいない。
たった1軒だけのケーキ屋で、みんなそこでケーキを買う。
わたしの誕生日も、家族の誕生日も、必ず。
自分を甘やかしたいときには、クッキーを買う。
ディアマンと、チョコチップと決めている。
深い青いドアを持つパティスリーは、ずいぶんと坂の上にある。
「こんなところでもケーキを買う人がいるんだなあ」なんて、ぼんやりと思っていたけれど
ケーキ屋っていうのは、どこにでも必要なんだ。
ひとは、ケーキを持って遠くまでは行けないから。
ひとが住むところには、街と呼ばれる場所には必ず、ケーキ屋があるんだ。
坂の上のケーキ屋は、おもちゃ箱みたいだった。
または、森の隠れ家。
なんとなく小ぶりで、妖精とか小さなくまが出てきても、びっくりしないみたいな。
そして、坂の上の街にはやっぱり、おもちゃ箱みたいな煉瓦色の三角屋根が、たくさん生えていた。
*
ケーキを買えない代わりに、焼き菓子をひとつ買った。
黄色いふくろの、レモンケーキ。
その日の午後、本を読みながらおやつに食べた。
それはそぼくで、懐かしい気配の、純然たるレモンの味だった。
※今日のBGM
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