"成果"について、ゆるやかに考える
昨日、久々に曲をボツにした。
noteの記事でも、作詞でも作曲でも
「これはダメだ! 全部やり直し!」みたいなボツの仕方って、わたしはあんまりしない。
何事も、ひとつの創作にあまり時間をかけないタイプだからだと思う。
「こういうのも、アリか」と、前向きになったり
「ひとつにすべての感情を詰め込むのはむり」と、諦めることもある。
数少ないけど、ダメになりそうなときは、気配でわかる。
だいたい「気持ちが溢れ出しているとき」か「むりやりやっているとき」のどちらかで、機能の場合は両方だった。
溢れ出す気持ち、
わたしはこの動画の最後に載せる曲を、意図して作ろうとしていた。
弾き終わってから、「これじゃだめかもしれない」と思いながらも、
あれこれ試行錯誤してしまった。
聞き直したら、やっぱり全然ダメだった。
いま載せているのは、時間が経ってピアノに向かったときに「弾けるかもしれない」と思って、さらっと弾いたもの。満足している。
*
新しい技法を試して、どうしていいかわからなくて、
時間が経って、「うまくいかない」とじわりと気づいた。
時間は、30分以上経過している。
この1時間の「成果」は、動画の編集が終わったこと。
ピアノは何も、残らなかった。
残らなかった、のだろうか。
そう思ったときにわたしは、「もしかして今まで、成果を気にしすぎていたのかも」とハッとした。
弾いた曲は残さなかった。
でも、DTMソフトの知らないボタンをたくさん押して、わたしは”挑戦”した。
次にあの機能を使おうとしたら、うまくいかない、わからないなりに、それでももうちょっとマシにできると思う。
成果って、なしとげた結果って意味らしい。
あることをして得た、よい結果。
*
よい結果なら、きちんとここにあるではないか。
挑戦して、失敗して
それだって”成果”だと、胸を張ろうと思った。
記事や曲を残すことが、全部じゃない。
「作っている」ときだけが頑張っているだけじゃない。
生きることの血肉となるものって、もうちょっと近くにある。
呼吸をするように、もっともっと漂っている。
「何もなかった」と決めるのは、いつだってわたしだ。
だったら、「何かあった」と決めるのも、いつだってわたしでいい。
*
物理的な”何か”が残らないと、不安になったりする。
なにをしていたんだろう、と思ったりする。
ひどいときには、物理的な”何か”が残ったって、不安になったりする。
これ、作った意味、あったのかなって。
いまは見つけられなくても、
未来の自分が、いつか答え合わせしてくれるよ。
なーんて、いまは思っている。
きっと、そうだといいなって。
だから、無意味だったなんて悲しまないで、ゴミ箱に捨てたりしないで
そういう日もあるかって。
そうやって許せる日は、許しながら生きていきたい。
もちろん、落ち込んだり責めたりする日が、あってもいいのだけれど
わたしは友達に対して「あんまり自分を痛めつけないでね」と思っている。
*
生きることの、血肉となるものは漂っている。
そう思ったら、少し肩の荷が降りた気がする。
なんとなく、”成果”という、見えない的と戦っていた。
ただただ、見えなくて、不安だった。
だいじょうぶ
生きてるよ、進んでるよ。
それでも見つからないときや、不安なときは相談して欲しい。
あなたの目と、わたしの目でよっつになるから。
きっと、見える景色は違うでしょう。
もっと、広い世界が見えるでしょう。
*
苛烈の中を生きたい、と思うわたしもいる。
確かにいる。
あまいことばっかり言ってるな、と怒っているわたしが、部屋の隅でふてくされている。
君のことも、忘れていない。
でもこの先も、長く戦いたいから、そうして漂いたいから
「新しい魔法を手に入れた」と思ってさ、
そんなに、ふてくされた顔をしないでおくれよ。