小指と親指くらいは、遊ばせておけ
手を、グーにする。
そこから、小指と親指を立てて、くるくるとまわす。
「何かあったらいつでも呼んで」
画面の中、そのひとは笑って言った。
電話の受話器に見立てられていたと思ったその手が、「ハングルース」だと気がついたのは、映画の終わりだった。
*
「大切なものができたら、一歩離れてみなさい」
中学生のころ読んでいた小説で、そんなセリフがあった。
女子高生の学園モノの中の一節で、いまでも忘れられない。
理解できない言葉のいくつかは、わたしの心臓に刺さって抜けなくなる。
大切なものなのに、どうして離れなくちゃいけないんだろう。と思った。
物語の中で「そうするべき流れ」みたいなのは理解できたはずなのに。
この言葉を放たれた主人公と、わたしはきっと同じ顔をしていた。
大切なら、両手いっぱい抱きしめたかった。
それは、間違っているのだろうか。
*
「ハングルース」は、高校生か大学生の頃に読んだ。
何度引っ越しても手放さないし、きっと無人島にも持っていくと思う。
手を、グーにする。
そこから、小指と親指を立てて、くるくるとまわす。
「なんだよ、それ」というフェイスに、コングは笑う。
「ハングルースっていうんだ」
「何かを掴むときには、小指と親指くらいは遊ばせとけってことだ」
*
当たり前みたいな日々の中、
やっぱり当たり前みたいな顔をして、何かに手を伸ばす。
わたしはそんなに器用じゃないから、いつも必死になってしまう。
器用じゃないくせに、飽きっぽくて欲張りで、でも平気な顔をしたくて、
水面で笑いながら、水中でバタ足をするように生きていたのかもしれない。
それを、悪いことだとは思わない。
時折すべてを投げ出して、浜辺で大の字になるような時間を過ごしてきたことも。
やっぱり必要だったのだと思う。
「ハングルース」を思い出す。
きっとわたしの人生に必要なものだから、とわかっていたので、各SNSのアカウント名も「hangloose」にしているのに、ときどき忘れてしまう。
ずっと拳を握るように生きることはできない。
大切なものができたなら、それをずっと大切にしたいなら、一歩退いて
小指と親指を遊ばせるくらいの感覚で、掴んでゆく。
「蹴伸びでもね、進めるってわかったんだ」
友達の声を、ときどき思い出す。
わたしたちは、必死にバタ足しなければ進めない、と思っていたけれど
蹴伸びでも進める。
小指と親指を遊ばせても、きっと大丈夫。
*
何かに疲れたときは
何かが掴めないときは
いまでもわたしは、思い出さなくてはならない。
必死になりすぎていないか、
周りがきちんと見えているか、
わたしが”掴みたい”と信じた、願いの中心はどこにあるのか。
問い掛けなくてはならない。
絶望するのは、きっとそのあとでいい。
わたしはおとなになったいまでも、ハングルースを思い出している。
【photo】 amano yasuhiro
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