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太陽と過ごした午後
週に1度、光合成をしている。
病院からの帰りは、公園まで歩く。
坂を越えて、下って、ベンチに座る。
買ったお茶を、ぐびぐびと伸びながら。
おひるごはんは、おにぎりと甘いパンをひとつずつ。
ついこのあいだまでは、寒かったのに。と思う。
ああ、わたしってば
「ついこのあいだまでは」という言葉を、すぐに引っ張り出してしまう。
だってほんとうだもの、と思う。
このあいだはまでは、外での読書は短い時間だけだった。
散歩で火照った身体もすぐに冷えて、風の吹く日は寒くさえあった。
春になってーーー
春になった、という自覚もあまりないけれど。
ここ半年くらい、鼻炎の薬を飲み続けているから花粉もつらくないし、ふとんだってパジャマだって冬用のままだ。
それでも、春になったのだろう。
人も猫も花も、たくさん見掛けるようになった。
空の星は春霞でずいぶんとぼやけ、シリウスですら見失ってしまった。
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春になって、今日は散歩の子どもをたくさん見た。
おそろいの帽子をかぶって、3人くらいのグループで、一生懸命に地図を見ていた。
地図を読み上げ、神妙に、時折笑いながら頷きあっていた。
「地図を見ましょう」と、おとなびた声が聞こえてきたけど、やっぱり子どもだった。
小学生くらいだから、「子ども」という言葉で括らせてもらったけれど、子どもってずいぶんおとななんだな、と思う。
わたしのほうが、子どもみたいだ。
地図も見ないでふらふら歩いて、背だって君たちとあまり変わらない。
さすがに、ついこのあいだまで、というのは言いすぎだろうか。
わたしだってあれくらいのころ、3人くらいのグループでいくつかの課題をこなした。
外を歩いたし、児童館にも行った。と思う。
外へ出ることは楽しかった。と思う。
あまりに薄情だろうか。
ほとんどのことを、覚えていないのだけれど。
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子どもたちが過ぎ去ったあとは、もう少し大きな子どもたちが通っていった。
大学生かな。このへんには大学もあると聞いている。
大学生って、声が大きい気がする。
無敵で、いちばん無遠慮な時代だと思う。少なくとも、わたしにとってはそうだった。
何かをわかったつもりな顔をして、わたしもそうして歩いていた。
自由だった。
午後に散歩するのも、講義をサボるのも、夕飯に何を食べるかも、または食べないという選択も。
そういう自由さが、人を無敵にさせるような気がする。
わたしはいまでも平日の午後、公園で本を読んでいて
自分で選んだお昼ごはんを食べているから、けっこう自由なのかもしれない。
無敵さは欠いたかもしれないけれど、確かに手に入れたものがある。
あの頃の友達にはいつでも会いたいとは思うけれど、戻りたくはない。
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本を読んで、子どもたちを見て、おにぎりをかじって、
「少しずつ食べよう」と思った甘いパンは、もう残りわずかだった。
午後のひかりは、あたたかい。
不思議だ、ついこのあいだまで寒かったような気がするのだけれど
午後のひかりは、ずっとあたたかかった。
いま春の訪れと共に、ぐんと温度を上げただけで。
午後は変わらず、午後だった。
わたしが小学生のころも
わたしが大学生のころも
午後のひかりを浴びよう、と意識するようになったのは最近の出来事かもしれない。
わたしは自分が、小学生のころとか大学生のころの午後を、あまり覚えていない。
天気も時間も気にしなくても、おもしろいことはもっと他にもあったような気がする。
べつに、いまがつまらないわけではないのだけれど。
「夏至がくると寂しくなる」と言っていた人を、いまでも時折思い出す。
別に親しかったわけではないけれど、その言葉が印象的すぎてしまった。
あのころわたしは窓のない地下のライブハウスで働いていて、夏至はおろか日の長さなんて気にしたことはなかった。
無敵の残り香に後ろ髪を引かれる、20代の中頃だったように思う。
「これから日が短くなっていく、と思うと寂しいんだ」とけっこうまじめに言っていて
なかなか、風流な人だな、と思った。
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いまではわかる。
太陽がそこにいる時間と、星の位置を確認して、季節の花を見つけてはほほえむ。
そして、午後のひかりに溶けるようにまどろむ。
ごはんは一瞬で飲み込んで、
本は開いたり閉じたりして、半分くらいぼおっと過ごしていた。
午後のひかりを、愛している。
いまは、そう思う。
確かに、そう思う。
このことさえ覚えていられたら、と思う。
どれほど苛烈に飲まれても、午後のひかりに帰ることができたならば。
もちろん、ほんとうに苦しいときは、外に出ようとなんて思えない。
そして、「外に出れない自分はどうしようもないヤツだ」なんて思ったりするだろう。
わたしは、けっこう卑屈なヤツだ。
落ち込んだりするだろうけど、落ち込んだことはすぐに忘れて欲しい。
そうして、いずれ苦しいことにも落ち込むことにも飽きた、そのときには。
日のあるうちに、外に出て欲しい。
冬は日が短いけれど、太陽がいないわけじゃない。
今日がダメなら、明日でも良い。
そんなにいちいち落ち込まなくていい。
そもそも、あまりよく出来た人間ではないことを、決して忘れてはいけないよ。
まじめに本を読んだりしなくても良い。
一応イヤフォンを持っていくことをおすすめするけれど、使わなくたっていい。
なんでもいい。
靴を履いて、外に出て欲しい。
そうすれば、
なんとか、少しはましに
生きていけるんじゃないかって。
こうして午後のひかりを吸い込んで
光合成はやはり良い、なんてわけのわからないことを思って満ち足りている、まぬけなわたしのことを思い出せば、どうか。
これからも、生きていけるのではないか。
べつに特別じゃない時間が、
無敵でも強くも賢くもないわたしを、
少しくらいは守ってくれるように。
祈ろうと思ったけれど、やめた。
祈りは、わたしにはあんまり似合わない。
魔法をかけよう。
呪いのように、これからもわたしの肩を、叩き続けますように。
※春霞でシリウスを見失った物語
※今日のBGM
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