咲かない花も、咲けない花も
このあいだ、花を買った。
あの日から、”ダリアの首”について考えている。
あるいは、”ダリアの首を落とせるか”について
ロスレスブーケっていう、めちゃくちゃお得に買えるお花。
fowerってアプリから買えるので試して欲しい。
このお花がお安い理由っていうのがいくつかあって、
ひとつは、お花屋さんを経由していないこと。
このお花たちは「花屋で売られる、商品になる」という運命を回避しているので、何が起きているかというと、葉っぱが多い。バラにはトゲがある。
つまり、手入れの必要がある。というのが挙げられる。
このロスレスブーケが、「9本~12本」っていうのが「ウソだろ」と思ってしまうのは、花屋だったら落とされている(あるいは別売りされている)葉っぱやつぼみが多いから。
覚悟が必要だ、と思った。
花と向き合う、というのは、覚悟が必要なこと。だと思っている。
もちろん、「花のある暮らしをしたい」とか「わたしもお花買ってみようかな」なんていう友達には、絶対にそんなことは言わない。
花は、選ばなければいけない。
落とさなければいけない。
花は、腐り土に還ろうとする。
それが花の定めであり、生命の輪廻だった。
土に還ることで養分となり、またそこに花が咲くのだということは、花屋でアルバイトをしてきた友達に教えてもらった。
我々は、花の運命に逆らう。
土に還ろうとする花に手を加え、少しでも長く生きるように手入れをする。
手入れの過程で、別れなければいけない葉や花もある。
水につかってしまう部分や、枯れた花は、切り落としていかなくてはいけない。
そして、わたしはダリアの首を、落とせない。
ダリアの記憶は、”ハチミツとクローバー”の記憶だった。
いつでも夏のベランダの、”あゆ”を思い出す。
こんなことで、いちいち泣くことではない。と、思う自分もいる。
そして、いつまでもさめざめと泣いていたい、というわたしもいる。
◆
花は、ある程度は間引いて花瓶に生けた。
間引かなくてすむように、クチの大きくて水のいっぱい入る花瓶を買った。
小さな花瓶に花をたくさん入れると、水を取り合うような気がしてしまうので、小さな花瓶には少しだけお花を入れるようにしていた。
花瓶があれば、花の命も、わたしの心も救われてゆく。
少しずつ間引いて、枯れた花を捨てて、
それから今日、つぼみを捨てた。
スプレー咲きの、切り分けた一輪は、やっぱり咲かなかった。
咲かないまま、折れてしまった。
たぶん、もうひとつのつぼみも、咲かないと思う。
どうしても、咲かないつぼみっていうのがある。
最初はそれを知らなくて、疑わなくて
大切に買ったアンティークローズがつぼみのまま枯れたときには、少し泣いた。
花が咲く、っていうのは大変なことなんだと知った。
「つぼみのほうが長く楽しめる」と安易だった。
あれからわたしは、つぼみを買わない。
買うならば、「咲きそうなつぼみ」を選ぶことにしている。
あるいは、「既に咲いている花」とセットになってるやつとか、
言葉にしてみると、そんなふうに未来を選択してるのって、どうなんだろう。
ねえ、わたしが「咲かないつぼみ」でも、買ってくれますか?
◆
咲かないつぼみを、わたしは今日も捨てないと思う。
折れるか枯れるまで、見守ってしまうと思う。
それくらいは許して欲しいというか、誰もわたしを叱れないので、わたしの問題だろう。と思う。
わたしはわたしの問題を、もっと大切にすべきだ、と思う。
咲かないつぼみが、まるでアタシみたいだ、と思った。
わたしはこれからもう二度と咲かないかもしれない。
咲かないのならば、この花瓶から退場すべきだと思う。
わたしは、「これから咲くかもしれない花」から、水を奪うべきではない。
きっと、それが正しい。
あの日、あゆができなかった”正しさ”と”やさしさ”を、いまこそ、わたしがーーー
◆
昨日、メッセージをもらった。
唐突なので驚いて、その何百倍も嬉しかった。
そこには、「咲かないつぼみもきれいですよ」と書いてあった。
少なくとも、いまの、咲けないつぼみみたいなわたしの言葉を受け取って「よかった」という意思表示だった。
ときどき、どこかの誰かの「よかった」に救われる。
それが、百年の呼吸のように、からだに染み渡るときがある。
ありがとう、「言葉はまだ人を救う」ということを証明してくれて
花は、咲くかもしれないし、咲かないかもしれない。
その通りで、それでいいのだと思う。
咲く花だけが、美しいわけではない。
美しくあることだけが、生きる意味ではない。
そしてわたしは、ダリアの首を落とせないままでも
わたしは、わたしの問題を決して諦めずに
今日も花瓶の、水を替える。
※アプリ"flower"公式note
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