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咲かない花も、咲けない花も

このあいだ、花を買った。

あの日から、”ダリアの首”について考えている。
あるいは、”ダリアの首を落とせるか”について


ロスレスブーケっていう、めちゃくちゃお得に買えるお花。
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このお花がお安い理由っていうのがいくつかあって、
ひとつは、お花屋さんを経由していないこと。
このお花たちは「花屋で売られる、商品になる」という運命を回避しているので、何が起きているかというと、葉っぱが多い。バラにはトゲがある。
つまり、手入れの必要がある。というのが挙げられる。

このロスレスブーケが、「9本~12本」っていうのが「ウソだろ」と思ってしまうのは、花屋だったら落とされている(あるいは別売りされている)葉っぱやつぼみが多いから。

覚悟が必要だ、と思った。

花と向き合う、というのは、覚悟が必要なこと。だと思っている。
もちろん、「花のある暮らしをしたい」とか「わたしもお花買ってみようかな」なんていう友達には、絶対にそんなことは言わない。

花は、選ばなければいけない。
落とさなければいけない。

花は、腐り土に還ろうとする。
それが花の定めであり、生命の輪廻だった。
土に還ることで養分となり、またそこに花が咲くのだということは、花屋でアルバイトをしてきた友達に教えてもらった。

我々は、花の運命に逆らう。
土に還ろうとする花に手を加え、少しでも長く生きるように手入れをする。

手入れの過程で、別れなければいけない葉や花もある。
水につかってしまう部分や、枯れた花は、切り落としていかなくてはいけない。

そして、わたしはダリアの首を、落とせない。


「ダリアはね、どうしてもここから枯れちゃいますから」
いろいろ悩んでいたわたしに、店員さんがそう声をかけてきた。
“ここから”というのは、茎と花の境目とでも言えばいいのだろうか。
人間で言うなら、耳の裏にあたるような感覚だ。

「枯れてきちゃったらね、ここで切ってお皿に浮かべてあげてください。
 そうしたら、そのあと数日は楽しめますから」
笑顔で告げられたので、笑顔で頷いた。

だけど、心の中はそわそわしていた。
わたしはきっと、ダリアを切れない。
それは、花を浮かべるべき美しいお皿がないから、だと信じたい。
でもきっとそれだけじゃなくて
「もう少し大丈夫だろう」なんて、夢見がちで無責任なわたしがいる。

"ダリアの首を落とせるか"

ダリアの記憶は、”ハチミツとクローバー”の記憶だった。
いつでも夏のベランダの、”あゆ”を思い出す。

けれど7月の台風で
一番背の高いシソが一本
ポッキリと折れてしまった

母はそれを見て言った。
「それはもう元には戻らないから、折れた所からちぎりなさい」
「そうすれば、新しい枝がのびて、また新しい葉がきれいにしげってくるから」、と

でも私には、それがためらわれた。
どうしても

"ハチミツとクローバー" Chapter24

こんなことで、いちいち泣くことではない。と、思う自分もいる。
そして、いつまでもさめざめと泣いていたい、というわたしもいる。



花は、ある程度は間引いて花瓶に生けた。
間引かなくてすむように、クチの大きくて水のいっぱい入る花瓶を買った。
小さな花瓶に花をたくさん入れると、水を取り合うような気がしてしまうので、小さな花瓶には少しだけお花を入れるようにしていた。
花瓶があれば、花の命も、わたしの心も救われてゆく。

少しずつ間引いて、枯れた花を捨てて、
それから今日、つぼみを捨てた。

スプレー咲きの、切り分けた一輪は、やっぱり咲かなかった。
咲かないまま、折れてしまった。

たぶん、もうひとつのつぼみも、咲かないと思う。
どうしても、咲かないつぼみっていうのがある。

最初はそれを知らなくて、疑わなくて
大切に買ったアンティークローズがつぼみのまま枯れたときには、少し泣いた。
花が咲く、っていうのは大変なことなんだと知った。

「つぼみのほうが長く楽しめる」と安易だった。
あれからわたしは、つぼみを買わない。
買うならば、「咲きそうなつぼみ」を選ぶことにしている。
あるいは、「既に咲いている花」とセットになってるやつとか、
言葉にしてみると、そんなふうに未来を選択してるのって、どうなんだろう。

ねえ、わたしが「咲かないつぼみ」でも、買ってくれますか?



咲かないつぼみを、わたしは今日も捨てないと思う。
折れるか枯れるまで、見守ってしまうと思う。
それくらいは許して欲しいというか、誰もわたしを叱れないので、わたしの問題だろう。と思う。
わたしはわたしの問題を、もっと大切にすべきだ、と思う。

咲かないつぼみが、まるでアタシみたいだ、と思った。
わたしはこれからもう二度と咲かないかもしれない。
咲かないのならば、この花瓶から退場すべきだと思う。
わたしは、「これから咲くかもしれない花」から、水を奪うべきではない。
きっと、それが正しい。
あの日、あゆができなかった”正しさ”と”やさしさ”を、いまこそ、わたしがーーー



昨日、メッセージをもらった。
唐突なので驚いて、その何百倍も嬉しかった。
そこには、「咲かないつぼみもきれいですよ」と書いてあった。
少なくとも、いまの、咲けないつぼみみたいなわたしの言葉を受け取って「よかった」という意思表示だった。

ときどき、どこかの誰かの「よかった」に救われる。
それが、百年の呼吸のように、からだに染み渡るときがある。
ありがとう、「言葉はまだ人を救う」ということを証明してくれて

花は、咲くかもしれないし、咲かないかもしれない。
その通りで、それでいいのだと思う。
咲く花だけが、美しいわけではない。
美しくあることだけが、生きる意味ではない。
そしてわたしは、ダリアの首を落とせないままでも

わたしは、わたしの問題を決して諦めずに
今日も花瓶の、水を替える。





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松永ねる
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