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14番目の月と、幸福の色

二十歳だった。
怖いものなんて何もなかった。

その台詞は鉄球のように重たく、重力に沿ったスピードでわたしの中に落下してきた。
地面に当たる直前で、慌ててコートの襟をぎゅっと掴んで、深く吸い込んだ。
驚いて弾んだ息をなんとか整えながら、難いほどの青空を見つめるので、精一杯なわたしがいる。

三十五歳のわたしだって、怖いものなどない。怖さの種類が変わっただけだと言い聞かせる。
決して、二十歳の頃を懐かしんで、今と比べて「失った」などと思いたはない。

押したいボタンは増えた気がするけど、意外と真面目な自分がいてさ。

押せないことが多いからよくわかります

スイッチを押したい、とそう書いた手紙の返事だった。苦笑いの君の顔が、目に浮かぶ。
自分は困っているのに、誰かを困らせないために、そうして笑う。
つい、平気そうな、なんでもないような顔をしてしまう。
そう、信じてもらえないかもしれないけど、我々はけっこう真面目なのだ。
なににも傷付かず、無敵なような顔をするのが好き、というか、そういう生き方を選んだだけで。

今となっては、その生き方に意味があったのかとか、正しかったのかとか、そういうことはわからない。
そういえば、考えもしなかった。
「寂しい」と言って泣ける人を、どうしたって羨ましくは思えなかった。
なんだかもう、違う世界を生きているのだと思う。
この世界では、地中に埋めなければ生きてゆけない言葉がある。
吐き出したほうが楽になるかもしれない、と思わないこともないけれど、それがルールなのだから仕方ない。
ルールを破って吐き出してみたところで、「言ってやった」という開放感が訪れるのはたった一瞬で、そのあとは強い後悔に襲われる。ということも、存分にわかっていた。それはもう、存分すぎるほどに。
そりゃあもう、2月の空の青さよりよくわかっている。
ああ、空ってこんなに青かったかな。2月の昼間って、こんなに暖かかったっけ。不思議だ。2月の午後を、わたしはこうして歩いたことがあっただろうか。もう、思い出せない。
少なくともいまは、それでいい。
青空の下、コンビニで買ったおにぎりにかぶりつきながら空を仰いでいる午後は、わたしの欲していた世界だった。

ここは駅から結構離れているのに、ひとつしかない遊具はいつも賑わっている。
わたしは駅から近いところにしか住まないし、住めないけれど、世の中には駅から遠いところに、車やバスを使って、広い家に住む必要がある人もいるのだろう。或いは、何か別の理由ーーーそれはもう、自分の人生経験では想像し得ないような何かが、あるような気がする。
自分のまわりの何人かは忘れたけれど、よく付き合う友人を何人か集めて、みんなの年収を平均すると自分の年収になるらしい。と聞いたことがある。
むかしは「そんなもんか」と思っていたけれど、いまはなんだか妙にしっくりくる。
結婚を機に道を違えた友人の、その友人たちはやっぱりみんな結婚していったし、わたしの周りは未婚が多い。不思議と、そうなっていった。
わたしの世界は、案外狭いのかもしれない。
いや、案外どころか、なにも見えていないのかもしれない。
わたしは毎週ここで、同じ味のおにぎりを食べている。

「ワン、ツー、スリー」
遊具からは、大きな声が聞こえてくる。
それは、ほんものの英語だった。
わたしの視力ではほとんどわからないけれど、子どもたちがそれを聞きながら走り回っていた。
そしてまた、「ワン、ツー、スリー」と聞こえてくる。

そうだよね、なんでもいいよね。みんなでわかりあえれば、共通の認識があればそれでいい。
1秒の長さは、「ワン、ツー、スリー」でも「いち、にい、さん」でも変わらないって、もう知っている。
なんでもいいんだ。
おにぎりを飲み込んで、包まれていたビニールをカバンに押し込んで、そうつぶやいた。
そう、なんでもいいんだ。そしていままた、狭かったわたしの世界が少し広がったことを、嬉しく思う。
外に出てきてよかった。知らないことを知れると、ほっとする。

ときどき、数にしか救われない。と思うときがある。
読んだ本の数、作れるようになった料理の数、覚えたアロマの数、花や星の数。
そういったものは、裏切らない。積めば積むほど、わたしを安心させてくれる。
知らないものを知る、というのは「良い数」のひとつだった。ひとつ、数えるたびに、生きていてよかったんだ、という気持ちになれる。

三十五歳だった。
まだ、人生に迷っていた。

わたしがいま主人公なら、こんな台詞を紡ぐのだろうか。二十歳のときは、三十五の自分なんか想像できていなかった。
いま、四十とか四十五の自分も想像できていない。でも、きっとくる。生きていれば、必ず来る。
四十のわたしは、いやその前に三十六のわたしは、なんという言葉を紡ぐのだろうか。
なんだかそれを、「楽しみに」できていない自分が、なんだかひどく情けない。
なんて言ったら「六十過ぎたって悩んでるよ」という母親の声が、頭上で響いた気がした。

迷っていたけれど、手にしたものがある。
いや、手にしなかったものがある。
就職や結婚は運良くチャンスはあったような気がしたけれど、手放した。代わりに欲しいのはなんだっただろうか。午後のベンチで本を読む自由さだったろうか。
自由は責任と引き換え、とはよく言ったものだ。
なんだって、手に入れるたびに引換券を渡される。宝くじだって当たったら税金をたくさん払わなくてはいけないのでしょう。花を生けたら、枯れたときやその直前に捨てる、という儀式もついてくる。いらないのに。
花の散りゆくもの美しい、とは言うけれど、ずっときれいなほうが手入れが楽なのに。と、思わないこともない。咲かずにつぼみのまま枯れ行く花を見るたびに、本当は寂しい。
枯れた花を捨てることで、何を手に入れるのだろうか。整った部屋、次の花を買える権利ーーーああ、きちんと良い引換券をもらっているではないか。よくないことばかりに見てしまうのは、人間の性、なんていうのは卑怯だろうか。もっと建設的に生きている人もたくさんいるだろうに。

もう一度、手にしなかったものを考える。
そうして2月の空を、もう一度睨む。
わたしは、悩み続けていたかったのではないだろうか。

つぎの夜から 欠ける満月より
14番目の月が いちばん好き

ユーミンの声を、いまようやく思い出す。中学生のころから、この曲好きだったよなあ。もう、20年も昔になる。
いまでも好きだ、と思う。

二十歳のときに持ってはいけない、と強く思っていたもののひとつが「幸福」だった。満月のように満たされてはいけない、となぜだか自分を呪っていた。
いまでは、幸福も悪くないと思える。幸福でも、生きてゆけるような気がしている。
リュックサックのポケットから、ふたつのチョコレートを取り出して、口に放り込んだ。
ああ、禁断の味。幸福だ。

三十五歳
幸福を探している

これならば、いいような気がする。
愚直に、貪欲に、欲しいものを欲しい、と言う。
「幸福って結婚でしょ?」なんていう奴がいたら、ぶっ飛ばせばいい。または「よほどしあわせな結婚をなさったんですね」と微笑んでやったっていい。
「幸福ってお金でしょ?」と言われたら、一理あると頷いてしまうかもしれない。「自由に稼げたらいいんですけどね」なんて言ったあとに後悔する。自由を持っている人は責任を持っていて、加えてものすごく努力をしているものだから、頭が下がる。

平日の午後に本を読んで、好きなお菓子を買って、時々友達とおしゃべりして、たまには新作のネイルを買って、少し広い家に住みたい。古くてもいいから。たくさんではなくていいから、自分ひとりと大切な人が困らないくらいのお金が欲しい。
このあたりが、わたしの幸福の色だろうか。

そうだ、幸福には色がある。幸福になりたいとか、なりたくないとか、その前に、自分の幸福の色を探すべきだった。
寂しいも苦しいも、ぜんぶ平気な顔をしているうちに、真っ黒で平らになってしまった心臓を撫でる。長いこと、蔑ろにしてしまって悪かったね。
満月の美しさを知る者こそ、14番目の月の美しさを語るべきだった。わたしは、満月を見つめることから逃げていただけだったのかもしれない。

ああ、きっとそうだ。そういうことだったんだ。
ようやく満足して立ち上がった。





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松永ねる
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