おやゆび
ずきり、と鈍く響くのは、いつも親指だった。
右手の、古傷。
古傷が生まれる前、のことを、わたしはもう上手に思い出せない。
あの瞬間、わたしの記憶は分断された。それにしたってもう昔の出来事だった。
いまは、痛みだけが残っている。
なにかしらの不調や、季節の変わり目や寒暖差、
原因はよくわからないけれど、右手の親指の付け根が響くように痛みだして、右肩までじんわりと抜けてゆく。
これを、繰り返している。
*
単なる、ウィークポイントの話だ。
風邪をひくと、いつも声をガラガラにしていたお姉さんのことを思い出す。
歌とおしゃべりを生業にしていたひとなのに、いつも喉からで気の毒だった。
わたしの場合は、口周り。口内炎とヘルペス
あと、右の親指。 それだけのこと。
*
久し振りにずいぶんと重たく響いた気がして、眉をひそめる。
立ち止まらなくては、と思う。
物理的にも、そうじゃない部分でも、
「守らなくては」と思う。
親指に死なれては困る。
もう、あんなふうにピアノが弾けなくなるのは御免だ。
*
ピアノがわたしにとって、一体何だったと言うんだろう。
それでも望んでいないのに弾けなくなって、あのときわたしは居場所と、生きる意味を失ったように思えた。
楽器を弾けるすべてのひとを憎んだ。
わたしは、死んだのだ。
*
死んだ、と同時に問い返した。
何を以て、わたしは死ぬのだろう。
*
わたしの魂は、どこにあるのだろう。
ピアノにあるのだろうか。
それでは、何を以て音は、わたしになるのだろうか。
わたしが弾いていればそうなる?
じゃあ、他の人と何が違うの?
どうして、わたしの音だと言い切れるの?
*
小指、にあるような気がした。
土台となりすべてを支配する低音、左手の小指。
そして、最後に放たれるいちばん高い音、右手の小指。
右手の小指を支えるのに、
どうしても、右手の親指は必要だと思った。
身勝手なわたしのピアノ。
「ドラマーがいないところでさ、好き勝手弾いてるのがいちばん良いんだよね」なんて、バンドメンバーに言わせてしまった、わたしのピアノ。
すこやかなる身体から湧き出す鼓動。
*
最後に、音だけは残りますように。
*
音が残れば、何度でも蘇る。
息を吹き返して、また惑って、それでも
わたしが、死んでも。
いつも、わたしを苦しめるのも守るのも音だとしても。
わたしの音が、生まれ続ける世界に在る限り
わたしの魂は、死なないのだと思う。
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