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コインランドリーとわたし

重たい荷物を抱えて、歩き出すことにした。
もう、後には退けない。

荷物の中身は、洗濯をしたシーツやタオルケットだった。
曇りの午後、16時。
いまから外に干しても乾かないし、そもそもこんなにたくさんのものを干せるスペースはない。

だから、行かなくてはならない。
コインランドリーへ。

この家のことは、気に入っている。
住んで5年。
もう少し広いところに引っ越したい、とは思うけれど
こんなに家賃が安いのに鉄筋造で、独立洗面台があって、エアコンは2台、駅から約10分。
近所に、大きなスーパーがあるのもいい。

ただひとつ、
ひとつだけ言えることがあるならば、これだけ。
コインランドリーが遠すぎる。

家を決めるとき、スーパーやコンビニ、薬局の場所を駅からのルートに合わせてチェックはしていた。
コインランドリーは盲点だった。
いや、最初からわかっていても「コインランドリーが遠い」という理由で、別の家を探したりはしないのだけれど。

いままで、幾つかの家に暮らしてきた。
コインランドリーを利用しよう、という気持ちになったのはおそらく3軒目の家のことで、それまではどうしていたんだろう。
仮暮らし、だったような気がする。
自分の家だったけど、帰って眠るだけの、なんだろう。不思議だ。
わたしは大学生で、わたしの居場所は友達の隣だった。そういう感覚が、色濃い時代だった。
「部屋」という物理的空間を、居場所と認識することができなかったような気がする。
もらったソファーにごろりと倒せるように寝ていた。
毎日がキャンプみたいな。高揚感と寄る辺なさのあいだを、彷徨っていた。

3軒目の家のときに、近所の友達が洗濯機を壊したと言って、慌ててコインランドリーの場所を探した。
「うちの洗濯機を使ってもいいけど、坂の下にコインランドリーがあるよ」
それが、はじまりだった気がする。

4軒目の家のときは、足繁く通った。
このときは、感覚とか日替わりとか気のせい生理前とか、そういう次元ではなく、わたしは孤独だった。
それはもう純然たる、圧倒的な強さを持って訪れ、心の潰れる音がした。そして聞こえないふりをして、すべてを認めなかった。
ふたりの孤独、をあのとき以上に感じることはもうない。
ふたりがふたりとも、傷ついた獣で、慰め方を知らなかった。

それでも、「好きな人と暮らす家を快適にしたい」という気持ちが純粋であったことを、わたしは信じることにした。
偽善だとか、恋に溺れていたとか、なんと言われても構わない。
そんな、あたたかくてやさしい、何かを思いやるような感情だったら、どれほどよかっただろうか。
気持ちを埋めることは難しい。
それよりも、掃除をすることのほうが簡単だった。
掃除も買い物も終えてしまったわたしは、コインランドリーに通うことにした。

コインランドリーまで、歩いて2分。

寂しくても、春でも、そうじゃなくても
わたしは何度も、歌った。
山崎まさよしの「ツバメ」。
2回目のAメロの歌詞が、「コインランドリーは歩いて2分」で始まる。
それはもう勇敢な行進曲のように、やわらかな春の風のように
荒ぶ心を、いつもほんの少しだけ慰めてくれた。

そうしてわたしはひとり、5軒目の家へと移った。
やっぱり、コインランドリーは歩いて2分のところにあった。
そのことに、どれほど救われただろうか。
またわたしは歌いながら、コインランドリーを目指せばよかった。

いまは、6軒目の家に暮らしている。
コインランドリーまでは歩いて15分、とは思いたくないけれど、10分では行けない。
不思議だ。この街のひとたちは、どうしているんだろう。
ああそうか、だからこのコインランドリーはいつも混んでいるのか。
乾燥機を使っているあいだ、家に帰ることは面倒なので、わたしはいつもぼおっと過ごす。
そのあいだに、何人かのひとを見送る。

缶コーヒーを飲みながら。
ぐるぐるとまわる乾燥機を見ていることの、幸福たるや
不思議だ。
コインランドリーはコインランドリーでしかない。
他の幸福に置き換えることはできない。と思う。
わたしは、コインランドリーを愛している。

コインランドリーの前にある、武骨な缶の灰皿を愛していた。
何年か前に撤去されて、あのときはずいぶん寂しい思いをしたのに
わたしはもう、煙草を吸わない。
そうして、小さな街の、小さなわたしの中の時代も、確かに動いている。
なにかを手に入れて、失って
街の人も少しずつ入れ替わっているのだろう。
それでも、変わらずにコインランドリーを愛している。

家から遠いばっかりに、一気にたくさんのものを持っていこうとして
だから面倒で、最近はあんまり来なくなってしまったけれど。
訪れるたび、代えがたい幸福にうっとりする。
こればかりは、例えようがない。

ぐるぐるとまわるシーツも、隅に置かれている謎の漫画本も、両替機がなくて柔軟剤か洗剤、またはジュースを買うしかない、ちょっとセコいようなシステムも
いつも細く開いている古めかしい窓も、壁に取り付けられた扇風機の懐かしさも
この街に暮らす人々も、その生活が滲む後ろ姿も
もう、愛さずにはいられなかった。
ごうごうと機械が動く音は、子守唄みたいだった。

もし、コインランドリーの近くに暮らしていたら。
今日は、そんなことを想像してみる。

きっと、不機嫌なときに来るだろう。と思う。
仕事で嫌なことがあった日、ケンカをした日。
わたしは時計を見る。コインランドリーはだいたい23時くらいまでやっている。
まだ間に合うことを確認して、すべてのシーツを剥いで洗濯機にぶちこむ。
シーツを洗ったばかりだとしても構わない。
苛立ちが収まらないなら、カーテンを引っ剥がしてもいい。

それから、シャワーを浴びる。
時間に余裕があったら、湯船に使ってもいい。
ちょっと大きな音で、好きな曲を流す。
音楽は、わたしの脳内を支配する。
苛立ちすらも、何か大きな膜のようなもので包み込んでくれる。

そうして気持ちが少し軽くなって、
なんならもう気が済んだ、もう眠い、と思ってしまうかもしれないけれど
髪を乾かしたら、洗濯機を開ける。
ぜんぶを引っ張り出して、イケアのビニールバッグに押し込む。
財布とイヤフォンと、本を持つのも忘れない。

夜のコインランドリーは空いていて、動いていない乾燥機が多い。
わたしはシーツをいくつかの乾燥機にわけて放り投げる。
とりあえずすべてに200円入れて、コーヒーを買う。
ああ、お酒を飲める人生を歩んでいたら、こういうときこそビールなのかもしれない。

それから、乾燥機を見つめる。
そのことに飽きたら本を読むか、音楽を聞く。
でも、けっこう飽きないから不思議だ。
ぼおっと、見つめている。
ごうごうと鳴る、子守唄みたいにやさしい低音に守られながら。

20分経って、すべてが乾いたことを確認して家へ帰る。
そしてあたたかいシーツをセットして、そのころにはうっとりとほほえむだろう。
この瞬間、すべてのことはどうでもよくなる。
シーツがあたたかく、健康的な匂いがすること。
それが、わたしの世界のすべてだ。

天才的なことに、もうお風呂にも入っている。
明日の目覚ましだけ確認して、もう眠ろう。

ああ、いつかコインランドリーの近くで暮らしたら、きっとそうしよう。
コインランドリーさえあれば、わたしの苛立ちの何割かは、乾燥機でカラカラに乾かされて、吹き飛ばすことができるだろう。

ピーと音がして、立ち上がる。中に手を突っ込んで、振り回して、中身が乾いていることを確認した。
さっきまでのあたたかな想像と、よく乾いたシーツを、ビニールバッグに押し込む。
床に落とさないように、気をつけながら。
小銭が足りなくて、もう1本買った缶コーヒーも忘れずに。
行きは洗濯をして重たかったシーツが、帰りは乾いて軽くなる。
当たり前のことが、いつも嬉しい。

それじゃあまた近いうちに。
わたしは自動ドアをくぐって、10分と少しの道を歩き始めた。




【photo】 amano yasuhiro
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松永ねる
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