
コインランドリーとわたし
重たい荷物を抱えて、歩き出すことにした。
もう、後には退けない。
荷物の中身は、洗濯をしたシーツやタオルケットだった。
曇りの午後、16時。
いまから外に干しても乾かないし、そもそもこんなにたくさんのものを干せるスペースはない。
だから、行かなくてはならない。
コインランドリーへ。
*
この家のことは、気に入っている。
住んで5年。
もう少し広いところに引っ越したい、とは思うけれど
こんなに家賃が安いのに鉄筋造で、独立洗面台があって、エアコンは2台、駅から約10分。
近所に、大きなスーパーがあるのもいい。
ただひとつ、
ひとつだけ言えることがあるならば、これだけ。
コインランドリーが遠すぎる。
家を決めるとき、スーパーやコンビニ、薬局の場所を駅からのルートに合わせてチェックはしていた。
コインランドリーは盲点だった。
いや、最初からわかっていても「コインランドリーが遠い」という理由で、別の家を探したりはしないのだけれど。
いままで、幾つかの家に暮らしてきた。
コインランドリーを利用しよう、という気持ちになったのはおそらく3軒目の家のことで、それまではどうしていたんだろう。
仮暮らし、だったような気がする。
自分の家だったけど、帰って眠るだけの、なんだろう。不思議だ。
わたしは大学生で、わたしの居場所は友達の隣だった。そういう感覚が、色濃い時代だった。
「部屋」という物理的空間を、居場所と認識することができなかったような気がする。
もらったソファーにごろりと倒せるように寝ていた。
毎日がキャンプみたいな。高揚感と寄る辺なさのあいだを、彷徨っていた。
3軒目の家のときに、近所の友達が洗濯機を壊したと言って、慌ててコインランドリーの場所を探した。
「うちの洗濯機を使ってもいいけど、坂の下にコインランドリーがあるよ」
それが、はじまりだった気がする。
*
4軒目の家のときは、足繁く通った。
このときは、感覚とか日替わりとか気のせい生理前とか、そういう次元ではなく、わたしは孤独だった。
それはもう純然たる、圧倒的な強さを持って訪れ、心の潰れる音がした。そして聞こえないふりをして、すべてを認めなかった。
ふたりの孤独、をあのとき以上に感じることはもうない。
ふたりがふたりとも、傷ついた獣で、慰め方を知らなかった。
それでも、「好きな人と暮らす家を快適にしたい」という気持ちが純粋であったことを、わたしは信じることにした。
偽善だとか、恋に溺れていたとか、なんと言われても構わない。
そんな、あたたかくてやさしい、何かを思いやるような感情だったら、どれほどよかっただろうか。
気持ちを埋めることは難しい。
それよりも、掃除をすることのほうが簡単だった。
掃除も買い物も終えてしまったわたしは、コインランドリーに通うことにした。
コインランドリーまで、歩いて2分。
寂しくても、春でも、そうじゃなくても
わたしは何度も、歌った。
山崎まさよしの「ツバメ」。
2回目のAメロの歌詞が、「コインランドリーは歩いて2分」で始まる。
それはもう勇敢な行進曲のように、やわらかな春の風のように
荒ぶ心を、いつもほんの少しだけ慰めてくれた。
そうしてわたしはひとり、5軒目の家へと移った。
やっぱり、コインランドリーは歩いて2分のところにあった。
そのことに、どれほど救われただろうか。
またわたしは歌いながら、コインランドリーを目指せばよかった。
*
いまは、6軒目の家に暮らしている。
コインランドリーまでは歩いて15分、とは思いたくないけれど、10分では行けない。
不思議だ。この街のひとたちは、どうしているんだろう。
ああそうか、だからこのコインランドリーはいつも混んでいるのか。
乾燥機を使っているあいだ、家に帰ることは面倒なので、わたしはいつもぼおっと過ごす。
そのあいだに、何人かのひとを見送る。
缶コーヒーを飲みながら。
ぐるぐるとまわる乾燥機を見ていることの、幸福たるや
不思議だ。
コインランドリーはコインランドリーでしかない。
他の幸福に置き換えることはできない。と思う。
わたしは、コインランドリーを愛している。
コインランドリーの前にある、武骨な缶の灰皿を愛していた。
何年か前に撤去されて、あのときはずいぶん寂しい思いをしたのに
わたしはもう、煙草を吸わない。
そうして、小さな街の、小さなわたしの中の時代も、確かに動いている。
なにかを手に入れて、失って
街の人も少しずつ入れ替わっているのだろう。
それでも、変わらずにコインランドリーを愛している。
家から遠いばっかりに、一気にたくさんのものを持っていこうとして
だから面倒で、最近はあんまり来なくなってしまったけれど。
訪れるたび、代えがたい幸福にうっとりする。
こればかりは、例えようがない。
ぐるぐるとまわるシーツも、隅に置かれている謎の漫画本も、両替機がなくて柔軟剤か洗剤、またはジュースを買うしかない、ちょっとセコいようなシステムも
いつも細く開いている古めかしい窓も、壁に取り付けられた扇風機の懐かしさも
この街に暮らす人々も、その生活が滲む後ろ姿も
もう、愛さずにはいられなかった。
ごうごうと機械が動く音は、子守唄みたいだった。
*
もし、コインランドリーの近くに暮らしていたら。
今日は、そんなことを想像してみる。
きっと、不機嫌なときに来るだろう。と思う。
仕事で嫌なことがあった日、ケンカをした日。
わたしは時計を見る。コインランドリーはだいたい23時くらいまでやっている。
まだ間に合うことを確認して、すべてのシーツを剥いで洗濯機にぶちこむ。
シーツを洗ったばかりだとしても構わない。
苛立ちが収まらないなら、カーテンを引っ剥がしてもいい。
それから、シャワーを浴びる。
時間に余裕があったら、湯船に使ってもいい。
ちょっと大きな音で、好きな曲を流す。
音楽は、わたしの脳内を支配する。
苛立ちすらも、何か大きな膜のようなもので包み込んでくれる。
そうして気持ちが少し軽くなって、
なんならもう気が済んだ、もう眠い、と思ってしまうかもしれないけれど
髪を乾かしたら、洗濯機を開ける。
ぜんぶを引っ張り出して、イケアのビニールバッグに押し込む。
財布とイヤフォンと、本を持つのも忘れない。
夜のコインランドリーは空いていて、動いていない乾燥機が多い。
わたしはシーツをいくつかの乾燥機にわけて放り投げる。
とりあえずすべてに200円入れて、コーヒーを買う。
ああ、お酒を飲める人生を歩んでいたら、こういうときこそビールなのかもしれない。
それから、乾燥機を見つめる。
そのことに飽きたら本を読むか、音楽を聞く。
でも、けっこう飽きないから不思議だ。
ぼおっと、見つめている。
ごうごうと鳴る、子守唄みたいにやさしい低音に守られながら。
20分経って、すべてが乾いたことを確認して家へ帰る。
そしてあたたかいシーツをセットして、そのころにはうっとりとほほえむだろう。
この瞬間、すべてのことはどうでもよくなる。
シーツがあたたかく、健康的な匂いがすること。
それが、わたしの世界のすべてだ。
天才的なことに、もうお風呂にも入っている。
明日の目覚ましだけ確認して、もう眠ろう。
ああ、いつかコインランドリーの近くで暮らしたら、きっとそうしよう。
コインランドリーさえあれば、わたしの苛立ちの何割かは、乾燥機でカラカラに乾かされて、吹き飛ばすことができるだろう。
*
ピーと音がして、立ち上がる。中に手を突っ込んで、振り回して、中身が乾いていることを確認した。
さっきまでのあたたかな想像と、よく乾いたシーツを、ビニールバッグに押し込む。
床に落とさないように、気をつけながら。
小銭が足りなくて、もう1本買った缶コーヒーも忘れずに。
行きは洗濯をして重たかったシーツが、帰りは乾いて軽くなる。
当たり前のことが、いつも嬉しい。
それじゃあまた近いうちに。
わたしは自動ドアをくぐって、10分と少しの道を歩き始めた。
【photo】 amano yasuhiro
https://note.com/hiro_pic09
https://twitter.com/hiro_57p
https://www.instagram.com/hiro.pic09/
いいなと思ったら応援しよう!
