シェア
人間であることが、不向きだと思う。
贈り物には愛があると思う。 それはときに、「買った側の自己満足」が含まれている場合もある。 「相手を想って」と「自己満足」の境界線って、すごく難しい。 そういえば今日買ったトマトペースト、よろこんでくれるかな。 勢いで買ってみたけれど、自信がなくなってきた。 愛はあるけど、自己満足かもしれない。 それでも、購入の瞬間はあなたの顔(それも、勝手に喜んでくれるという妄想を引っさげて)が浮かんで あなたよりわたしのほうが、しあわせになっちゃったりする。 そして買ったものを届
投稿したエッセイを確認していると、ページの下部に「このクリエイターの人気記事」が表示される。 むかしは、「クリエイター」と呼んでもらえることそれだけで、なんだかぽかぽかと嬉しかった。 居場所を、与えられたような気持ちになった。 たぶんあのころは、居場所というものが必要だったんだと思う。 書き続けて辿り着いたのは、「座れればどこでもいい」のような、野生児のような魂だった。 わたしが本当に必要なのは、居場所じゃなかった。 いや、居場所もあればいいのだけれど、プライドを折るくらい
目が覚めて、ひとりで、ほっとする。 最近は、仕事から帰ってごはんを食べるとすぐに寝てしまう。 会社では平気な顔をして、ついつい大声で笑ったりして、きっと「あかるいひと」、あるいは「げんきなひと」なんて思われているのだろうけれど、 仕事が終わると、ぐわりと疲れる。 後遺症による、薄い靄みたいなものは、まだ晴れない。 (病のカテゴリ?としては、ブレインフォグと呼ばれるらしい。ずいぶんとその名の通りだなあと思う) 病気のことはさておき、そもそもそんな暮らしをしていた。とも思う。
わたし今日、画期的なことに気づいたの。 家族の愚痴です。 読み物としてお楽しみいただけるように、或いは頷いていただけるように書きましたが、100%本音の愚痴です。
わたしは、一緒に住んでいる男を”恋人”と呼ぶことを嫌っている。 宇多田ヒカルだって、そう言っていた。