半笑い氏の言い分について(その8)
(その1からその7)迄、具体例を元に検証を続けてきて、他にも山ほど書きたい事が溜まっているのですが、今回は『固執した考え方は変わらない』という事について触れてみたいと思います。
半笑い氏はブログ・twitter・facebook等で情報発信しているのですが、自分の主張・考え方をコラムで発信する『半笑いの雑記帳』という不定期更新ブログを書いています。(http://d.hatena.ne.jp/han_Warai/20121029/1351527993)
2012年の10/30に書かれた『ネット上に於ける、ダメージワード/フレーズの語義拡大について』というコラムが、今回のやり取りと主張的に重複する部分があり、2年前も今も全く同じ考え方に固執している様子が顕著に表れた文章ですので紹介します。
「売名行為」「ステマ」と軽く触れた上で、いよいよ本人が一番主張したい『品がない』『○○アピール』という本題に突入します。これは、当時から「ストロングポイント」と称して都合の良い部分だけを誇示して、都合の悪い部分は隠蔽するという手法について批判された事に対する自論を持っての反撃のつもりなのですが、2年経った現在も同様の主張をしている事に驚かされます。例を提示して颯爽と語っているのですが、「なるほど」というよりは、非常に違和感を感じる文章でした。以下に引用すると、
「品がない」というフレーズの使われ方も、その種の危うさを内包している気がする。
ある競馬予想家が、しばらくtwitterで発信してなかったが、ある大レースで的中したことを久しぶりに呟いたら、それに対して「的中した途端に自慢するなんて品がない」と非難されているのを見た。
だが、考えてみて欲しい。
予想自体を商品としている競馬予想家が、発信できるチャンネルがあれば、そこで商品のセールスポイントを語るのはごく当然ではないだろうか。特にフリーランスならば、本人がほぼ唯一にして最大のセールスマンなのだから尚更である。
ひょっとしたら、本人は「品がない」からそうしたくないかもしれない。しかし、生活の為に、或いは扶養家族がいれば彼らを守るために、そうしなければいけないのだ。「せっかくアピールしやすい大レースで的中したのに、アピールしない」のは、セールスマンとしてはむしろ完全なる落ち度と言っていいだろう。自分の予想の売り上げで利益を上げている会社があれば、それを怠るのは背任行為とすら言えるかもしれない。
個人で行うtwitter、趣味で行う競馬。貴方にとってはそうかもしれないが、それらを数多くのものを背負ってプロとして行っている人もいる。そのことを想像できるかどうか…確かに難しいことだが、特に「品」について云々するのならば、他人の立場を慮る「品格」を携えて欲しい。
貴方が家電メーカーに勤めているとしよう。
自社製品の消費電力効率が競合他社製品より2%悪いとして、或いは値段が3%高いとして、はたしてそれを前面に押し出して宣伝するだろうか。それを補うデザインの良さや、耐久性の高さをアピールして、効果的な宣伝をするに決まっている。それは「品がない」のではなく、職業人としての能力の高さであるのは言うまでもない。
普通は技術者と製造工と営業マンと広報担当は別々なので、製品を作った当人が直接宣伝することはないだろうが、違う業種ではそれを全て一人でやっているスタイルの職業人もいるのである。それを「品がない」と貶めるのは、想像力の欠如以外の何物でもない。
「最も有効な手段で宣伝する」のを「品がない」と評して貶める人は、テレビも一切見ちゃダメなことになる。
テレビでのPRが効果的だと思う企業が多数あるから広告費が集まり、お金を掛けたエンターテインメントが構築できるのである。しかも、同じ放送局で複数の同業他社が広告を出稿して、それぞれ自社の商品が最も優れているような宣伝をする…それを「品がない」と切り捨てるのではなく、取捨選択するのが普通の視聴者の行動だろう。他の業種・業態に対しても、同じような目線を持てばいいだけの話である。
『ある競馬予想家』という設定で、自分に向けられた批判への反論を展開しているのですが、非常に面白い論法で説いています。
『ひょっとしたら、本人は「品がない」からそうしたくないかもしれない。』生活の為や扶養家族の為ならば、「品が無い」と自分が認識した行為も致し方ない。と言って肯定しているのです。一般的な常識では、生活の為であっても扶養家族の有無にかかわらずとも「品が無い」と自認している行為は当然慎むべきでしょう。『生活の為・扶養家族の為』なんていう個人的な理由が「品が無い行為」を肯定する理由になり得ない事くらい常識であり、まずこの一文で読んだ人は違和感を感じるのではないでしょうか?
次に、『「アピールしない」のは、セールスマンとしてはむしろ完全なる落ち度と言っていいだろう。自分の予想の売り上げで利益を上げている会社があれば、それを怠るのは背任行為とすら言えるかもしれない。』
『アピールしないのは、完全なる落ち度』と言い切り、更には『それを怠るのは背任行為』とまで飛躍しているのです。これは先程の違和感を更に増幅させます。今までの人生で受けてきた教育の中で培った自分の常識の範疇から明らかに外れた概念を至極当然のように言い切られた文面に違和感を超えて嫌悪感すら抱く程の主張です。更に常識外れの文章は続きます。
『数多くのものを背負ってプロとして行っている人もいる。そのことを想像できるかどうか…確かに難しいことだが、特に「品」について云々するのならば、他人の立場を慮る「品格」を携えて欲しい。』
まるで、競馬のプロは、大変なのだから「品が無い行為」を行ったとしても、裏には事情もあるかもしれないので、安易に「品が無い」等と批判しないで欲しいし、むしろ批判をする事自体が「品が無い行為」です。もっと批判された者の気持ちを考えろ。。。と言っているのです。何を言っているのでしょうか?正気ですか?と尋ねたくなるような文章です。
競馬プロに限らず、どんな職業(プロ)でも、「品が無いものは品が無い」のです。批判される事を云々言う前に、「品の無い行為をしないように留意する」のが世間一般の常識ではないですか?
得意の(本人は得意と思っているようだが、実は不得意)例え話が続きます。
『貴方が家電メーカーに勤めているとしよう。自社製品の消費電力効率が競合他社製品より2%悪いとして、或いは値段が3%高いとして、はたしてそれを前面に押し出して宣伝するだろうか。それを補うデザインの良さや、耐久性の高さをアピールして、効果的な宣伝をするに決まっている。それは「品がない」のではなく、職業人としての能力の高さであるのは言うまでもない。』
『それを「品がない」と貶めるのは、想像力の欠如以外の何物でもない。』
驚きの理屈です。よくもここまでの説得力の無い大間違いの理論を堂々と上から目線で恥ずかし気もなく語れるものです。あまりにも社会の常識から逸脱した屁理屈過ぎて、開いた口が塞がりません。社会人経験の無い幼児ならまだしも、大学を卒業して企業人経験もある大人の発言とは思えませんね。
自社製品のデメリットを隠して、メリットだけを前面に押し出してセールスする姿勢を「職業人としての能力の高さ」と言い切っています。この考え方が、依然として今に繋がって、都合の悪い時は、回収率や的中率を聞かれても拒絶するし、成績の好い時は誇示するのは当然であるという曲がった常識へと発展しているのでしょう。今まで何度と無く、その考え方は間違っていると意見されても一切聞く耳を持たずに自分が絶対だと思い続けてきたのでしょう。
はっきり言って、間違っています。
企業経営者であれば、そのような職業人は「能力が高い」どころか、逆に「無能者」「会社の成長の障害物」として排除したい存在なのです。都合の悪い事を隠して、都合の良い事ばかり前面にアピールする事は、顧客の為にならないし、顧客の信頼も得られないばかりか、トラブルの元になるだけの存在なのです。顧客の満足があって初めて企業の成長があるという基本的な常識から逸脱した社員は企業からも社会からも不要の扱いを受けるものなのです。
自社製品の消費電力効率が競合他社製品より2%悪いとして、或いは値段が3%高いのであれば、自らデメリットとして顧客に説明した上で、それを補うデザインの良さや、耐久性の高さを説明する事で顧客に判断を仰ぎ、納得して購入して頂くというのが、社会通念上の常識であり、人としての常識なのです。そのメリットとデメリットを踏まえてセールスする際に、顧客に如何に納得して自社商品を購入していただけるか?如何に顧客と信頼関係を築けるか?という点が、「有能なセールスマン」として問われる資質です。決して、「都合のいいことだけをアピールして販売に繋がれば有能だ」などと言う半笑い氏の考えは根本的に「品が無い」のです。 それこそ、
半笑い氏にこそ「他人の立場を慮る「品格」を携えて欲しい。
『「最も有効な手段で宣伝する」のを「品がない」と評して貶める人は、テレビも一切見ちゃダメなことになる。 。。。』それ以降の文章は、もう例としての資格もないし、あまりにも頓珍漢すぎて、読むのも面倒になるくらいのレベルです。なんだか、先日の半笑い氏の言い分について(その5)の車の宣伝の例と全く内容は同じですね。2年経っても、固執した観念はなかなか変わらないし、自分自身で変わろうとしないと成長しないものですね。
続いて、『○○アピール』について、これまた自分への批判での反論として書いているので列記します。
「○○アピール」というフレーズに関しても、同種の薄っぺらい切り捨てが潜んでいる。
SNS上などで、クレバーな見解を口にすれば「賢いアピール」、成功体験を表現すれば「勝ち組アピール」、他人に優しい言葉を掛ければ「優しさアピール」。
プラスのことを表現すると陰口を叩かれ、陰口叩いた方が「卑怯者・悪者を見付けて批判してやった」かのようなドヤ顔。そういう図式をよく目にするようになった。
まあ個別のケースには賛否両論あるだろうが、無数の個人が発信しているなかで、差別化を図ろうとすれば一定のアピールが含まれるのは当然だろう。特に、賢いと思わせた方が得な職種の人は、分かりやすく「賢いアピール」するのは仕事のうち。個人的には、何のアピールも含まれない発信を数多く読まされる方が苦痛である。
「優しさアピール」に至っては、何を批判しているかすら意味不明。優しさを向けられる対象の人も、一緒に住んでる相手ならばいざ知らず、SNS上で接するだけの相手には言葉にして伝えて貰わないと、届かない場合がほとんどの筈である。本人に直接アピールせずに、お百度でも踏めというのか。
こういう「他人の言動を、わざと耳触りの悪いワード・フレーズに閉じ込める」行為。具体的な他者の存在を描く想像力だけで全て回避できるはずなので、しっかり自覚してつまらない作為に陥ることがないようにしたい。
#
但し…実は「想像力の欠如」だけでなく、「『自分の手に入らないもの=価値がない』と思い込むことによって安心したい」という、意識的/無意識的な欲求が源泉となっている場合があるのが、これまた面倒臭い状況を生んでいる。まあこれについてはまた稿を分けますかね。
もう読んでいる人にとっては何が違和感に繋がるか、お分かりですよね。論点が滅茶苦茶なのですよ。なるほど。。と万人が頷ける常識から、あまりに乖離しすぎているのですよ。もはや宇宙人の世界ですね。。。
もし、「○○アピール」についての批判を展開するのであれば、本人が「○○アピール」する意識や、した意識が全く無いにもかかわらず、一方的に何でも安易に「○○アピール」で片付けてしまったり、批判したりするのは如何なものですか?。。という警鐘ならば内容について理解も出来るのですが、半笑い氏が言っているのは、自分で意図的にアピールする事は当然で、それを批判するのは妬みや僻みであり慎むべきだ。差別化を図る為に自己アピールは必須であり逆に自己アピールをしない人はつまらない人である。という頓珍漢な自論を声高に主張しているので文面が浮いているのです。
結局、これも半笑い氏が様々な「自己アピール」を度々ネット上で批判された事に対する反論であり、怒りであり、正当化であり、自己主張なのです。
『賢いと思わせた方が得な職種の人は、分かりやすく「賢いアピール」するのは仕事のうち。』そんな事を真剣に主張している程度の人間だから、何を言っても「○○アピール」と批判されるのです。
そういう認識で「○○アピール」している訳ですから、見る人からすれば、ミエミエな訳ですよ。だから「○○アピール」と言われても当然だし、実際に意思を持って自分が「アピール」しているのだから言われても仕方が無いですよね。そんな姑息な考えで自慢している人間を周囲の人は、「凄いですね。素晴らしいですね。賢いですね」と賞賛して「○○アピール」している人をいい気分にさせなければいけないとでも言うのですか?頓珍漢ですね。
そういう考えだから、40代になっても、出身大学をアピールしたり、学生時代のテストの偏差値を自慢したり、麻雀プロテストで○位で合格したり、会社を辞めてもテレビ局に居た事をいつまでも自ら自慢したりするのですね?
それが、『賢いと思わせた方が得な職種の人は、分かりやすく「賢いアピール」するのは仕事のうち。』という信念に基づいた行動なのですかね?
はっきり言って、逆効果です。本当に賢い人は自分であれこれ自慢しなくても自然と周りが認めてくれます。本当に優秀な人は、自分であれこれ主張しなくても周りが認めてくれます。
自分で、姑息にアピールすれば、それが事実であっても誰も認めてくれないし、そういう姿勢や考え方を批判されたり嫌われたり。。と敵を作るだけで逆効果です。
以上、「半笑いの雑記帳」を読んで、違和感を感じたので内容を書き連ねてみました。以降は本題に戻って(その9)と検証を続けます。