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1926年のモダン飯

喰い意地が張っている。

たべものについては大変に恵まれた家庭に育ったとおもう。
家計は厳しい時期が長らく続いていたけれど、
家の大人たちは食費を切り詰めるなどとは考えもしなかったらしい。
「貧乏してても、おかずがひとつふたつっていうの、おかあさん厭なの」ママンの名言。

祖母と母。祖母は母の母で、私が幼稚園の頃までは曾祖母、母の母の母もいた。誰も嫁ではない女が四世代で生活している。大人の男性は長らく不参加の、そこそこレアもの家庭。

料理は母と祖母が担当していた。どちらの料理もおいしかったし、母は凝ったものを作るのも好きだった。二人とも誰に習ったということではないようなので、《我が家の味》のルーツは曾祖母になるのだろう。母は店をやっており、後年は外にパートに出ることもあったので、夕食は祖母が担当のほうが多かった。

祖母が作る料理で印象が深いものは、
《今どきではない洋食》
外食も好きな一家であったので、所謂外でいただく洋食で《洋食というもの》の知識はマメにアップデートはされており、そこから見ると祖母作の洋食はなかなかに個性的なものでもあった。

例えばシチュー。
母の作るそれは、大きめの鶏モモ肉、玉ねぎ、人参、じゃがいも、マッシュルーム(缶詰)が基本の具で、その時々でコーンやカリフラワーやアスパラが入り、牛乳と生クリームで仕上げるクリームシチュー。
顆粒のシチューの素を使用するが、手を掛ける時はホワイトソースを作って加えていた。
《シチューはごはんのおかずになるか問題》のあれ。
祖母のシチューは汁物であるので、わたしは《シチューに白米どうなの?》がピンとこない。
具は豚肉…カレー用の角切りだったり、コマだったり。人参は銀杏切り。角切りのじゃがいも、くし切り玉ねぎ。味付けはコンソメと顆粒のシチューの素。さらさらで、うっすらと白濁しているスープであるシチュー…汁物なので、当然ほかにおかずが付く。焼魚におひたしとか。

あとはカレー。昭和の子どもなので、当然カレーといえば固形のルーを使った、具がごろごろしている黄色っぽくて辛み控えめのやつ。給食もよそのお家のも似たようなもの。人参、玉ねぎ、じゃがいも、お肉はその時々だけど、我が家はポーク派。
これは二人とも同じように出来上がるメニューではあった。ただ、ばあちゃんが子どもの頃食べたカレーはこうじゃないのだという。
ばあちゃんが話すそれがとても美味しそうに聞こえ、ねだって作ってもらった事がある。
具はアサリのむき身で、玉ねぎだったか長ねぎだったか…とにかくシンプル。
ルーではなく、S&Bの赤缶と小麦粉を炒めてとろみをつける。味付けには醤油やら味醂やらも入っていたようにおもう。

《昔は肉なんかなかったからね、カレーはアサリなんだよ》

出来上がったそれは、お蕎麦屋さんのカレーを薄味に仕立てたようなもので、カレー粉のスパイシーさが主張した、お子様向けではないもの。
《いつものやつのが美味しいな》とおもったことは内緒にした。

大正うまれの祖母は、横浜の山手で育った事を誇りにしていたフシがある。
縫い物で生計をたてていた母(曾祖母)と、貧乏役人だった父の長女。麦酒工場が近くにあり、小学校の制服はセーラーだったとよく話していた。
(そして関東大震災の被害にあって、現在の横浜の田舎に来たことを嘆くようでもあった)

シチューもカレーも、祖母流のアレンジがされていても、子どもの頃に自分の親が何とかしておいしいものを、栄養をと工夫したものが元であるからか、
大幅な改変はされずに献立に残った様子。

祖母はあたらしいもの、良いとおもうものには
《洒落てる》とか《モダンだ》とか云っていた。
薄いシチューとアサリのカレーはとてもモダンなものだったのかも。

https://note.com/peacedes/n/na49583ce2a65