バラの歴史からみたマリア様がみてる「チェリーブロッサム」と「日本のサクラ」
ごきげんよう、はねおかです。
今回はチェリーブロッサムにスポットを当ててみたいと思います。
チェリーブロッサムでは、乃梨子は自分のことを「逆・隠れキリシタン」と呼んでいます。カトリックへの信仰心は微塵もなく、仏像の造形美に見せられている自分を正しく異端だと認識しています。
副題のチェリーブロッサムは、ご存知サクラのことです。バラ属の中ではとりわけ大きな木になります。
サクラは北半球に分布し、花を観賞用とするものと、実を食用にするものに大別できます。
日本では半八重咲きや八重咲きといったように花を品種改良し、欧州では実を食用とするよう品種改良が進んでいった歴史があります。
サクラが鑑賞の対象になったのは平安時代以降です。それまでは花といえば唐から渡来したウメのことを指し、万葉集においてはウメの歌が118あるのに対して、サクラの歌は44しかなかったそうです。
ですが、古今和歌集においてはウメの歌が18種に対してサクラの歌は70種と逆転しており、ここから「花」といえばサクラという文化が始まります。
日本固有種のサクラは11種(ないし、カンヒザクラを除いた10種)とされています。
これらが人工交雑ないし突然変異を起こし、現在800以上にもなるサクラ郡を形成しています。
花見という習慣は、元はウメを鑑賞する平安貴族のものでした。その風習は鎌倉時代には武士階級に広まります。
花見が庶民に広まるのは江戸時代に入ってからです。江戸時代というのは、ガーデニング文化が爆発的に広まりを見せていた時期であり、庶民の植物への関心は世界一と呼んでいいレベルにありました。
当時、上野恩賜公園のサクラは花見の名所として知られていましたが、格式の高い寛永寺の敷地内であったために騒ぐことは許されませんでした。
庶民の行楽としての花見の歴史は、1720年(享保5年)に、当時の将軍徳川吉宗が浅草(隅田川堤)や飛鳥山にサクラを植えさせ、庶民の行楽としての花見を推奨させました。
つまり、聖さまが志麻子さんと桜の木の下で出会ったのも、同じように乃梨子と志麻子さんが出会ったのも、暴れん坊将軍のおかげだったんですね。
マリア様がみてるの作中でも描写されるように、桜が咲く時期は新たな出会いの季節でもあります。
日本でも、サクラの開花を春の訪れと捉え、農業の始まりとする「田植え桜」という文化がありました。
サクラは、新たな始まりを告げる花なのです。
それは、乃梨子にとっても、祐巳にとっても―