日吉辰哉プロが思い出させてくれた「自分が主役になった日」の話
日吉プロの著書、発売!
先日、日吉辰哉プロ初の著書「ヒヨシの超実況 これが麻雀実況者の生きる道」が届きました。
日吉プロの半生といえば、これまでも何度か見てきました。
熱闘!Mリーグの企画になったり。
追憶のMで漫画化もされましたね。
今回の著書で僕が「おっ?」と思ったのが、リレーアンカーの話です。
これは初耳だったので新鮮でした。
そこには、ひょんな事から100メートルリレーのアンカーを務めることになった、小学生の日吉少年のエピソードが書かれていました。
詳しくは著書でチェック!
はねおか少年
僕は小学校時代は、特に何もなく過ごしていた。
最初の四年は勉強ができ、天才と言われていたのだが、クラス替えで僕以上に勉強のできるやつが入ってしまい、勉強熱が冷めてしまった。
絵を書くのは好きだったが、これまた学校に一人はいるであろう「早いうちにマンガを描けちゃうクラスメイト」がいたおかげで絵の上手いはねおか少年はそこで死んだ。
小学校六年生のとき、たまたま体育の授業で100m走があったので全力で走ってみたら、そこそこの成績を出す事ができた。
唯一、僕にできることがあったのだ。
その流れのまま中学校へ進学すると、友人と一緒に卓球部に行かないかと誘われるも、人数が多く断念した。
彼はホッケー部に行き、僕は陸上部になった。
当時の顧問はとにかく練習を積み重ねていくタイプの人で、ずっと走らされっぱなしだった。
中学校だと他の小学校の生徒が入ってくるため。そこで仲間になったオタク友達とサボりながらやっていた。
ある日、サボっているのがバレて、顧問に横一列に並ばされて全員ビンタを食らったこともあった。今なら体罰で問題になるだろうが、当時はよくある光景だったし、もう時効だ。
中学三年生の時にある出来事が起こる。
顧問が退職なのか移動なのかは忘れたが辞めることとなり、短距離走の顧問が僕らのいる中・長距離走のメニューを作ることになった。
そのメニューは楽だった。
ウォーミングアップをし、10kmほど外を走り、クールダウンに軽く走って終了。それだけだ。
僕は「これさえやれば堂々と帰っていいんだ」とポジティブに考え、そのメニューに真面目に取り組んだところ、タイムがめきめきと縮まった。
もう一つの出来事は、後輩の存在である。僕らは「エース」と呼んでいた。
そんな彼は野球が大好きで野球部に入ったが、野球の方では芽が出ず、野球部のメンバーからも「お前は脚が速いんだから陸上のほうが向いているよ」と何度も言ってきたらしい。
そして、彼は二年生になったとき、決心して陸上部に入ってきた。
鳴り物入りで入っただけの事はあり、その足の速さは折り紙付き。
当時の部長も、練習をするようになり中・長距離走最速となった僕でさえ敵わなかった。
そんな時、運動会の演目に誰が出るかという会議があった。
持久走(1500m走)は、誰もやりたがらないので、僕は立候補したらすんなり決まった。
それもそのはず。僕が足が速いことなんて、部内の人間くらいしか知らないからだ。
そして運動会当日。
持久走が始まった。
僕は序盤は相手のペースを探り、後から追い上げる展開を得意としていた。
だから、200メートルトラック7週半のうち、3周くらいは最下位で見(ケン)に回るつもりでいた。
その時だ。
僕を応援してくれる声援。
まぁ、自分のチームが勝つよう応援するのは当たり前なのだが、僕の中学校までの人生で誰かに、しかも多数の人に応援されることなどなかったのだ。
そして。
調子に乗った僕は、最後方から脅威のゴボウ抜きを披露。最下位からトップ3に浮上した。
前にいるのは、エースと、これまた足の早いことで有名な二年生だった。
調子に乗って飛ばしすぎ、ペース配分を完全に間違えた僕が彼らに追い付けるはずもなく。
結果は3位となった。
とはいえ、学年だけなら僕が一番だった訳で。
ただのネクラのヒョロガリが、まさかあんなに早いとは…と、驚いた人も多かったと思います。
何者にもなれなかった僕が、唯一スポットライトを浴びた日でもありました。
日吉さんの実況は、賛否両論あると思いますが、僕は好きです。
選手が麻雀を真剣にやっていればよくて、あとはエンターテイメント。
今後も日吉さんにスポットライトが当たってくれたら、と思う今日このごろです。